私はずっと、この「やさしさ」がほしかった
「夜明け前が一番暗い」。有名なイギリスのことわざだ。その引用からはじまる「夜についてのメモ」は、「でも、夜がなければ私たちは地球の外に目を向けることもなかったでしょう」と続く。上白石萌音ちゃん演じる藤沢さんが少し緊張が入り混じる声でたどたどしく読み上げられるその言葉たちは、じんわりと私の心を包み、聴いているうちに静かに涙が流れ出ていった。
映画「夜明けのすべて」には、大きな物語の起伏はない。
にもかかわらず、私は気づけば物語のあらゆる場面で静かに泣いていた。あるときは気持ちが痛いほどにわかりすぎて、あるときは登場人物の柔らかな優しさに私まで心救われたような気持ちになって。人の数だけ苦しみや悲しみが出てくるけれど、すべて誰かが優しさの毛布でくるんでくれているから、登場人物たちを安心して見守ることができる。
私が目指したい「やさしさ」は、こういうことなのかもしれない、と思った。
やさしさにも、いろんな種類がある。よかれと思っての優しさが、時に辛いときもある。表面上は「あなたのため」と施される優しさの裏に、利己的な動機を見つけてしまうこともある。自分が悪者にならないために、優しさを装ってゆるやかに遠ざけられたんだな、と感じるときもある。
今の時代は公に責めること自体がタブー視されているから、みんな「大丈夫だよ」「無理しないで」と言ってくれるし、自分も相手のためではなく自分のために、「やさしい」振る舞いをしてしまっているときがある。
社会はどんどん優しくなっていっているはずなのに、優しくされればされるほど、どんどん孤立していく気がする。
藤沢さんと山添くんの関係性や二人の職場環境は、それとは真逆の「やさしさ」でできている。それぞれが抱えるものに、過度に気を使いすぎないやさしさ。天気の話のようにお互いの病気について話せる気やすさ。私はずっと、こういうやさしさが欲しかった。
原作小説でも映画でも、二人は一切恋愛関係にならない。会社の先輩後輩よりは近しいけれど、友達でもない、ふしぎな関係。でも抱えるものは違っても、何かを抱えながら生きる大変さとどうにかしようとしているのにどうにもならないもどかしさを共有できる、とくべつな関係だ。
二人が働く栗田科学(原作では栗田金属)も、二人にとってとくべつな場所だ。社長をはじめ、それぞれに何かしら抱えているものがある。だから無理をしないこと、何かあったらみんなでフォローし合うこと、そして病気や特性を特別視しすぎずに受け止めることが、当然の態度として共有されているのかもしれない。
映画ではそれぞれの背景にまでは言及されていなかったけれど、原作では社長が「二人ほどつらくはないだろうけど、(中略)心身ともに迷いなく健康な人ってそうそういないもんだよね」と語る場面がある。わかりやすく病名がついているものでなくても、人の数だけ悩みはある。そこに上下の区別は本来ないはずだ。
気持ちや気合いではどうにもならないもの。治すために、せめて軽減させるために、あれこれ試して努力して、それなのに自分の思い通りにはならないこの体。その絶望を私は痛いほど理解しているはずなのに、そして同じ女性なのに、私はこの作品と出会うまで、PMSを深刻なものとして考えたことがなかった。
PMSといっても症状は人によってさまざまで、私はどちらかというと落ち込みの方が強い。なので、怒りのパワーが強い人、イライラする人は普段もよく怒ったりする性格の人なのかな、なんて思っていた。藤沢さんのように、一日だけどうしようもなく頭にカッと血がのぼって、本当は言いたくないようなことまで捲し立てるまでおさまらない、という人の苦しみを、理解せずどこか軽く捉えていた自分に、藤沢さんと同じようにショックを受けた。
自分以外の辛さは、なかなか人には伝わらない。けれど、たとえば「体が自分の思い通りにいかない」辛さは、病気や障害が違っても分かち合うことができる。怠けているわけでも空気を悪くしたいわけでもなくて、自分なりに一生懸命に工夫はしているけれど、それでもどうにもならない罪悪感。
栗田科学の人たちのやさしさは、そういう経験をしてきた人たちの集まりならではの空気感のような気がする。
映画ではだいぶのんびりした会社の印象だったのだけど、原作を読んでみたら終盤で山添くんが実は仕事ができるメンバーの集まりなのではないか、と気づくシーンがあった。
この会社に辿り着く前の二人は、大企業に勤めていたり、若手のホープとして期待されていたりと、いわゆる勝ち組側にいた。しかし病気によって居づらくなり、社員10人以下の小さな町工場のような中小企業で、これといったやりがいもなく仕事をこなす日々へと「転落」した。
作中で「でも、病気になってよかったこともあるんじゃないかな」と話す場面がある。病気をきっかけにヨガをやるようになって体が柔らかくなったとか、と藤沢さんは笑っていた。世間の尺度で見れば、二人はかわいそうな存在だ。けれど、お互いに、そして会社の人たちも、二人を「かわいそう」とは扱わない。
苦しさや辛さを軽減してあげられる部分は支え合う。でもそれは上から下への施しではなくて、種類は違えど生きづらさを抱えるもの同士の、ゆるやかなつながりによるものだ。自分と似た苦しさを持つ目の前のこの人に、少しでも穏やかでいてほしい。恋愛や仲間意識など飛び越えた、プリミティブな感情とも言えるのではないだろうか。
病気や障害の診断がつくのは、ときに救いになることもある。治療法や対処法はもちろん、自分と同じものを抱えた人がどうやって生きているのかを知りやすくなるし、乗り越えたり活躍している人の情報を見ると希望を持てることもある。
けれど、診断名がつくことによって一括りにされる辛さもある。病気や障害は私の一部でしかないのに、「そういう人」として病気や障害の情報が先行することで、「私」が病気に飲み込まれそうになる。作中で山添くんも会社の人を含めほとんど周りに話していないと言っていたけれど、病気をカミングアウトしないのは、単に自分に不利になるからだけでなく、自分個人としてではなく「病気の人」という括りで扱われることへの辛さもあるんじゃないかと思う。
二人が抱える問題は、何も解決はしていないし病気という現実はずっとそこにありつづける。それでも最終的に二人が晴れやかな面持ちでそれぞれの選択した道へと進んでいけたのは、やさしく温かな日々が二人を少しだけ強くしたからなのではないかと思う。
やさしさは、人を強くする。でもそのやさしさは、夜の暗さと、暗いからこそきらめく星の美しさを知っている人に宿るのだと思う。
原作にはでてこない「星」の要素を入れたことで、映画版では「夜明けのすべて」というタイトルにさらに深みが出ていた。もっと星を眺めていたい、夜が続いてほしいと思う人のもとにも、否応なしに朝はくる。
希望も絶望も絶え間なく繰り返されていく、その営みが生きることなのだと、世界のやさしさとうつくしさを教えてもらった作品だった。
ここからは、自分の個人的な経験を含むのでマガジン読者向けです。
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