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平凡に、でも一生懸命に、幸せになるということ

最終回の放送から早くも2週間以上が過ぎ、世間の関心はすでに『まんぷく』に移ってしまっているだろうけれど、やっとのことで昨日『半分、青い。』を最後まで見終わった。

朝ドラはこれまでちょこちょこ見てはいたものの、半年というスパンの長さゆえにちょっと忙しくなると観れなくなって、結局離脱するということを繰り返してきた私にとって、はじめて完走したドラマだった。

あえて朝ドラらしからぬ展開をいれたことで賛否両論もたくさん目にしたけれど、それはきっと北川悦吏子氏が今この時代に書いた『半分、青い。』という作品が、朝ドラ史のみならず世間の空気を変えるレベルのエポックメイキングな要素を多分に含んでいたからなのではないかと思っている。

主人公の楡野鈴愛(すずめ)は、9歳のときに病気で左耳の聴力を失う。

このあらすじを見て、きっと障害を持ちながらも明るく生き抜く女性の一代記を描くのだろうと思っていた。

はじめこそ左耳が聞こえないせいでデートに失敗したり、就職先が決まらなくて苦労するエピソードも盛り込まれていたが、上京して以降のストーリーは、鈴愛の耳のことなんて忘れて見ていた人たちの方が多かったはずだ。

そのくらい、『障害があっても』という特別扱いではなく、うっかりしているとか口が軽いとか、あえてそういう個性のひとつとして左耳の失聴を描いていたように感じた。

それはきっと、脚本家の北川氏自身が主人公と同じく左耳を失聴し、さらに様々な病気を抱えながらもそれが自分を構成するすべてではないという強い思いがあったからなのだと思う。

ドラマの中盤で、漫画家を諦めたいと電話してきた鈴愛におじいちゃんが『人間は強いぞ』と優しく暖かく、でも力強く教え諭す場面があった。

人間は強い。このメッセージは、ドラマ全体を通して発せられていたメッセージのひとつだったと思う。

そしてそのためにこそ、ヒロインはあえて『弱く』描かれたのだ。

ヒロインの鈴愛の人生を振り返ると、成功よりも挫折していることの方が多い。

人気漫画家のもとで修行したにも関わらず漫画家としては成功できず、結婚生活も数年で終わり、ヒット商品を作ることを夢見て再就職したら会社が潰れ、自分で作った商品たちも鳴かず飛ばず。

朝ドラにありがちな、戦時中や高度成長期を強く生き抜いた女性のロールモデルでもなければ、何かを夢見てステップアップしていくキャラクターでもなかった。

毎回行き当たりばったりでやりたいことに邁進して、右往左往しながら時々成功して、時々失敗して、その度に何かを得たり失ったりしている。

見る側は、まるで親戚の子の近況を聞いてはハラハラしながら見守るおじさん・おばさんのような気持ちにさせられるのだ。

そのくらいヒロインは『普通の人』で、すごい才能に恵まれているわけでも、大きな幸運に出会うこともなく、平凡に過ぎていく日常の中で私たちと同じようなことにくよくよ悩む。

特に象徴的だったのが、才能の限界を感じて漫画家を辞めるエピソードだ。

秋風羽織という人気漫画家のアシスタントとして修行し、漫画家デビューまで果たした鈴愛を見て、私たちはてっきりここから漫画家としての成功譚がはじまるのだと思っていた。

しかし、デビュー作品以降ヒット作を書けないまま10年経ってしまった鈴愛は気づく。

『自分は、秋風先生のように神に愛された天才ではないのだ』と。

このときの鈴愛の葛藤のシーンは、何回見ても我が事のように辛くなる。

たとえ天才じゃなくたって、それなりに食べていけるならそのまま続けていけばいいじゃないかという人もいると思う。

でも、天才を間近で見ているからこそ、自分との才能の違いがはっきりとわかってしまうことが辛いのだ。

きっと普通の朝ドラだったら、ここで起死回生のアイデアを思いついたり、別の才能を見出されていい方向に話が動いたりするのだろうけれど、このドラマではヒロインにあえて辛い決断をさせることを選んだ。

その葛藤がとてもリアルで、そしてほとんどの大人はきっと一度は多かれ少なかれ似た経験をしているはずだからこそ、このエピソードを観た時に私はこのドラマが徹底的に『普通の人』を描こうとしているのだということを理解した。

ちょうど先週書いた「結婚第一主義」の本当の意味という記事の中でも、誰もが何かを成し遂げられるわけではない、という話を出した。

若いときは、誰でも『自分は何者かになれる』という希望をもっている。
でも、あるとき気づく。自分はこの世界の主人公ではなかったのかもしれない、と。
たとえそれに気づいてしまったとしても、人生は続いていく。

そして社会が成熟した日本において、今後は何かを成し遂げようとして疲弊したり自分らしさを殺してしまうよりも、別の道を見つけようという機運はますます高まっていくと思う。

だからこそ、この作品の中で鈴愛はひとつの分野で成長する存在ではなく、失敗しても挫折しても、そのたびに支えてくれる場所をもっている点を強調して描かれていたのだ。

漫画家を辞めたときも、離婚した時も、親友の死に直面した時も、常に鈴愛には岐阜の家族というシェルターがあった。

そして何より、辛い時には必ず律という『運命の幼馴染』が必ず寄り添ってくれていた。

子供の頃からマグマ大使に見立てて笛で呼び出すエピソードや、終盤で律がポロリと漏らす『俺は鈴愛を守るために生まれてきたんだ』という言葉に、鈴愛の幸せは何かを成し遂げることではなく自分らしくあれる場所にいることなのだというメッセージが込められていたように私は思う。

帰る場所、頼る場所があるということ。

これからは、そんな『平凡な幸せ』にスポットライトが当たっていく時代なのかもしれない。

また、今回大きく賛否両論を生んだポイントとして、作中での東日本大震災の描写があった。

あれだけの大きな出来事をたった2、3話にまとめるなんて、題材として軽く扱いすぎなのではないか、と。
そしてお涙頂戴の展開のために親友の死を描くのはどうなのかという意見も目にした。

でも私は、綺麗事じゃないリアルを描くドラマだからこそのものだったのだろうな、と思っている。

だって、人はずっと沈んでばかりはいられないのだ。悲しいくらいに、人間は、強い。

ケイコさんの『私はいつも通り働く。そして、自分が作ったもので1人でも多くの人に幸せを届ける。』というセリフに、その思いのすべてが詰まっている。

実際、当時の東京も震災後しばらくは自粛モードだったけれど、余震がなくなって物流も復旧したら、数週間であっというまに普通の生活に私たちは戻っていった。

それは決して被災者のことを忘れるという意味ではなくて、悲しみや辛さは置いておいて、私たちはそれぞれの持ち場で今日も明日も生きなければならないのだ。

ユウコは最後に『生きてくれ』という夢を鈴愛に託した。

ちなみにユウコだけではなく、律が母である和子さんを亡くすエピソードも、その悲しみはとても淡々と描かれていた。

大げさに泣きわめくのではなく、時々取り出してみる宝物のように大切に悲しみを扱う。

人が生きて死ぬということは決してドラマティックなことではなくて、誰もが実はそういう悲しみを抱えながら生きているのかもしれない、と思う。

このドラマには特別にすごい人はほとんど出てこない。

みんな平凡で、そしてどこかポンコツで、不器用だからこそ失敗したりする。

でもできないことを責めたりせず、常にお互いを応援しあったり、励ましあったりして、すごくすごく一生懸命に、幸せになろうとしている。

何かを成し遂げようとかもっと売上を大きくしようとかいう自分の野心を叶えるよりも、まわりの傷ついた人のことを絶えず心配している。

逆説的かもしれないけれど、そうやって『普通の人』たちが一生懸命に幸せになろうとすることは、それだけでドラマになるくらいに特別なことなのだ。

人生にはいいこともあって悪いこともあって、そのたびに周りの人に支えてもらいながら、明日も一生懸命幸せに生きていく。

『半分青い。』というドラマは、その価値を改めて示した作品だったのかもしれない。

私たちの人生はいつだって、半分の青空ともう半分の曇天でできている。

だからこそ私も青空の方に目を向けて、平凡な日常を幸せに生きていきたいと思う。

雨上がりの空を見上げて『半分、青い。』とつぶやいた、ヒロインの鈴愛のように。

(Cover Photo:NHK Official

ちなみに、絵美里さんが書かれた『半青』評もとても面白かったのであわせてどうぞ。
私よりも東日本大震災に思い入れの強い絵美里さんだからこその感想には、私もとても影響を受けました。


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