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隣人の咳

隣人の咳が聞こえている。昨日くらいから、彼女はいたく苦しそうに、ケホケホと咳をしている。深夜3時前、それに気がついた私がベッドの上で壁越しに耳を澄ませると、音はやんだ。

22時頃に彼女に会ったとき、咳大丈夫?と聞くと、うるさくしてごめんね。と返された。とても気を遣う子だと思う。別に騒音が気になったから言ったわけではないのに。

私は、こういうふうに誰かが大変な状況にあるとき、可哀想だなとか、辛いよな、とかいう感情を抱いたり、痛みに共感したりすることができない。誰かの身になって心を締め付けられるということがないのである。

私は、やさしくない。

他人に対して、世間的に見て優しい行為をすることはあるし、優しい言葉をかけることもある。友人からは、「優しいよね」という評価をもらうこともある。しかし、それは本当に相手を思ったやさしさではないのだと、私は自覚している。

ではなぜそうするのかというと、周りに優しい人だと思ってもらいたいからだ。私は、こうしたら/こう言ったらこう思われるよな、ということをコミュニケーションにおいて常に意識している。店員さんに、ありがとうございました、とか美味しかったです、と伝える一番の理由は、素敵なお客さんだとみなしてもらいたいからに他ならない。雨の日に、人とぶつからないように傘を避けたり畳んだりするのは、「優しい」自分に対する自尊心を高めたいからにすぎないのだ。

いつか恋人と話したとき、気遣いも打算だと言われて、たしかにそうだと思った。

そして、共感力が低いのだと感じることが多々ある。例えば友達が、赤ちゃんや小さな子どもや小動物に対して、かわいい〜!と言ったとき、私は同調することが少ない。憎たらしい、とまで思うときもある。また例えば、転んで泣いた子どもを、心配する気持ちが湧かない。将来自分が子どもを産んだら心境は変化するのかもしれないけれど、それはまだわからない。

これはただただ自分の嫌な部分をひけらかしているような文章だ。それでも記事にしたかったのは、こんなにやさしくないのは自分だけなのだろうか、と感じて自己嫌悪に陥るときがあるから。

私がいつか利他的になれる日はくるのだろうか。私以外の人はこのようなことは考えず、共感力を持って自然にやさしい行動をしているのだろうか。
身近な関係の人には言うのをためらう、小さな独白である。同じような感覚の人はいたりしますか。

隣人の咳はまだ、時折聞こえている。どうか早くよくなりますように。言葉だけでもやさしくいたい。

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