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生殺与奪権を奪い返すことが成功へつながる鍵となる

生殺与奪の権を他人に与えるな!

昨今、鬼滅の刃に出てくるキャラクター:冨岡義勇の言っていたセリフの一つである。この当時は大正時代、その上鬼が人を襲うという状況の中で言われたセリフであり、文字通り命の権利の話をしているが、現代ではメンタル面の話で考えることができるのではないだろうか?

心の生殺与奪権、つまり他人の顔色・言動次第で自らの心の生死が決まってしまう状態であるが、意外と他人に縛られ、すでに握られている人間も多くいると私は考えている。
実際に、学生であれば部活動の顧問、社会人であれば上司・得意先、はたまた親兄弟等々、振り返ってみると「あの時はあの人の顔色ばかり窺っていた」ということが意外とあるのではないだろうか?

特に、心優しく人を怒らせたくないと常に考える人は基本的に他人を優先する気質があったと思うが、その時点であなたの心の生殺与奪権を渡してしまっている状態である。

それでは、一体どういうことが問題なのか?
他人の言葉や態度に左右されてしまい、自らが主体的になって行動を起こすことができなくなってしまうことが挙げられる。要するに完全に憶病な人間として出来上がってしまう。抜け出すことは非常に難しく、卒業や退職といった環境が大きく変わるときが来ない限り、変化することができない。その上、環境が変わったとしても同じように人を怒らせないように、と行動してしまい二の轍を踏むことも考えられる。

そのためにも、主体的になって行動する必要がある。
主体的に行動することは、自らが考えて、その行動し得られる結果すべてに責任を持つこと、その過程で人と衝突することもあれば、嫌われることまでも覚悟してアクションを起こしていくことである。その上、結果が必ずしも自分が望むものになるかと問われても、なるとは限らず、当然失敗することもある。人は、先のリスクを考えてしまうと現状維持バイアスも相まって、行動を起こせなくなってしまう。たとえ、今の心の生殺与奪権を他人に握らせた息が詰まりそうな状況であったとしても、将来的に行動したその先にあるかもしれない失敗・リスクについて考えてしまうと、結局一歩を踏み出せず現状を何も変えられない。

しかし、基本的にこの場合に考えられる失敗とは、失敗=人生終了・どん底の始まりという事がほとんどではないだろうか?失敗を許容することができない社会構造・思考になってしまっているのは、学生時代からのテスト・成績といった結果を出したものだけが評価され、良いルートを選ぶことが許されてきた、という学校教育の負の遺産が、主体性を失くし失敗することが許されないという固定概念を生み出してしまったのではないだろうか。

失敗することは、人生の終わりではない。かの有名な偉人:エジソンも「失敗は成功の母」と残すほど、失敗することを大切にしている。もちろん、失敗しない方が良いのは当たり前の話ではあるが、

「小さな失敗からその過程で何がいけなかったのか」

これが非常に大切になってくる。間違えていた過程を少し変えるだけで、もしかしたら大きな成功につながるかもしれない。

失敗したままの状態で終わらせてしまうのは、あなたの人生において、ただの苦い思い出として永遠に刻みこまれ、心を蝕み続けるモンスターとなってしまう。失敗することに恐れを抱くのではなく、「この私が失敗で終わるわけないだろう!」という気概を持つことも大切であると私は思う。その気概・気合・バイタリティを持つためにも、人の顔色・言葉に振り回されることを、心の生殺与奪権を与え続けることは辞めよう。

今のあなたに必要なものは、全てを乗り越えるための「勇気」である。あなたの心の生殺与奪権を握る者から、その権利を奪い返す行動をしたとしても、あなたは決して死ぬことはない。むしろその人間の醜悪さを目にし、呆れ果てるだろう。その程度なのである。

たった1度しかない人生で、どれだけの勇気を振り絞れるか、それはあなたにかかっている。
あなただけが、あなたの人生を変えられるのである。


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