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選択肢があふれる時代を生き抜くために

一つひとつの選択に、意思を持ちたい。
と、つねづね思っている。

何を食べるか、どこに行くか、何を買うか。

わたしたちの暮らす世界にはモノや情報が溢れすぎていて、選択肢の多さゆえに決めきれないことが多い。


女性は優柔不断だと言うけど、例に漏れずわたしも優柔不断なところがある。

何を食べるかを決めるにしても、なんとなく違うなと思うと渋い顔をしてしまい、夫を「結局なにが食べたいの?好きにしなよ。」とあきれさせてしまう。

なんで男性は優柔不断じゃないのか。

はっきりとした理由は分からないけど、新石器時代の「男性は狩り、女性は縄張りを守る」という生活のDNAを引き継いで現在に至っている説をわたしはひそかに支持している。(ちなみにこの説は前職の人事部長が教えてくれた。)

男性は狙った獲物を逃してはいけない、死と隣り合わせの狩りでそういうDNAが形成された。

女性は縄張りを守り、他の女性たちとうまくやり過ごすために世間話をして間を持たせたり同調するDNAが形成された。

そう考えると、わたしが優柔不断なのも正当化されるような気がしてくる。

そのDNA継承説が正しかったとしても、やっぱり今の時代は選択肢があまりにも多すぎる。


ランチを食べるにしても、ネットで調べれば読みきれないほどのサイトが出てくるし、事前情報を集めるほど、どこに行きたいのか分からなくなる。

休日になにして過ごすかを考えるにしても、ネットやSNSで"みんなが行ってる"情報を集めて、行ってもない場所なのに取捨選択して、なんとかして満足感のある1日にしようと頑張る。

こう思っているのは、きっと私だけじゃないと思う。

昨日はブリズベンのダウンタウンに出かける前に、「カフェが有名そうだからカフェに行きたい」と思ってネットで探したけどどれも似たような気がして、ここに行きたい!という目星が立てられないまま出発。

東京ほどの人口密度ではないにしても、お店が立ち並ぶエリアなので、駅に到着して早速お店迷子に陥る。

下調べをした時間も、駅に着いてから調べる時間も無駄になり、微妙な雰囲気が漂う。

夫と話しているうちに、結局わたしは「こんな雰囲気のカフェがいい」とか、「深煎りのコーヒーが飲みたい」とか、何かしらの目的が一個もないことに気づいた。
そのへんのWi-fiの通ってる公園で作業しても良かったのかもしれない。

そう気づいたら、あまりに判断基準がなさすぎて悲しくなってきた。


オーストラリア旅は1ヶ月も残っているし、カナダワーホリは仕事も家も全て自分たちで決めていかないといけない。

なにもかも自分で決めていいという自由を手に入れた今、逆に迷子になってしまっている。

今までは仕事も家もあって、少し先の未来は予想できた暮らしだったけど、判断基準のない人が自由を手に入れるとこんなにも路頭に迷ってしまうのか、ということに気づいたオーストラリア10日目。

なにもかも自分で決めていいからこそ、
選択肢が多すぎる時代だからこそ、
自分の心がどんなことに感動し、
どんなことに嫌な気持ちになるのか。

今までは流されるように過ごしていたけど、これからは一つひとつの自分の行動のキッカケを考えながら過ごしていきたい、です。



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