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誰かの「好きな曲」に寄り添うということ

会うはずのなかった人とつながって
自分の世界が少しずつ開かれてゆく。

noteを始めてから、そんな、小さいけれどどこか圧倒的な力に、毎日動かされています。

誰かの書いたnoteに心を揺さぶられ
自分の書いたnoteが誰かの心に触れる。

書き始めて3週間。いつの間にか、noteに関わる時間が大切なものになっていました。

いまこうして読んで下さっている皆さん、投稿も不定期なこのnoteを覗いてくれて、どうもありがとう。noteを書いている皆さん、まだ知らないあなたのこと、そして世界のことを、教えてくれてありがとう。

つくづくそんな風に思ったのは、先日コメント欄で、noteをやっていなければつながるはずのない方と、思いがけない交流があったからです。理学療法士をしているぶんせきゴリラくんとの間に生まれた、ちょっとしたやりとり。

いろいろな歌や音楽に触れる毎日。自分にとってのその「当たり前」はどこからくるのか。ぶんせきゴリラくんの問いかけにどう答えようかと考えるうちに、自分の中に言葉が生まれました。

誰かの「好きな音楽」に寄り添う。
それが音楽療法士の仕事。

そうだったのか。
そうだったのか?

そんな風に言語化したことがなかったので、自分でも驚きました。もちろん、これがすべてではありません。誰かの「好きではない音楽」と向き合う作業もあります。でも、少なくとも、音楽療法士として自分が大事にしていることを、端的に表しているなと思いました。


PLAYER

音楽療法の現場で出会う患者さんや利用者の方々を、私は心の中でいつも、そう読んでいます。誰もが、それぞれのかけがえのない人生のプレイヤーであり、また生きることで自分の「好き」を表現し続けているプレイヤーでもある。そう信じているからです。

日々出会うプレイヤーの皆さんは、本当に一人一人が特別な存在です。人生のステージも、住む環境も、話す言葉も、食べてきたものも、読んできた本も、聞いてきた音も、受けてきた教育もみんな違います。

それに、セッションの場に足を踏み入れた時の心と体の状態も、毎回違う。その日の体調、天気、人間関係、直前に起こった出来事など、周りの環境のあれこれが、その人になんらかの影響を与えます。

言い換えれば

今、自分の目の前にいる
あなたは
この瞬間、そういうあなたとして姿を見せ
でも二度と、そんな風に現れることはない
一回きりの特別な存在

一回一回違う、人のありよう。それが浮かび上がってくる場に立ち会える幸運。それが毎回私を動かしていると言ってもいいかもしれません。

そういう「一回きり」の場で、プレイヤーの方が「この歌が好き」だと教えてくれる事があります、「あの音楽が聴きたい」と言ってくれることもあります。知らない曲であることが多いので、その場で詳しく教えてもらったり、歌ってもらったり、一緒に検索したりするのですが、出てくるものはもう本当に、さまざまです。

その人にとって、長い付き合いになる曲のこともあるし、さっき初めて聞いたばかりの音楽のこともあります。人種差別的表現が満載で、明らかに私を試そうとしているんだなと思う曲のことも。

それでも、その人が、その場で、その歌を聴きたいと思ったということ、あるいは他人に聴かせたいと思った(コイツに試してみっか、といったものも含めて)ということ、そしてその気持ちを私やグループのメンバーと共有しようと思ったということが、私にとっては特別であり、また相手を知る鍵になる。

だから、私はその人の「好きな歌」「聴きたい音楽」に寄り添う努力をします。

寄り添うというのは本当に難しい行為です。なぜなら、自分の中のその日の感情やら好き嫌いやらが、相手の「好き」や「聴きたい」をすぐに邪魔するからです。「でも」という言葉で。

でも。

この歌は好きじゃない。
この歌は古い。
このイントロは誰かの真似だ。
このカバーよりオリジナルの方がいい。
こんなアレンジ聴けないよ。
このジャンルは趣味じゃない。
この楽器の使い方、冒涜。
これ、ショボすぎる。
こんなの、聴きたくない!

でも。

友達や先輩や彼氏彼女に好きな歌を聞かれて、いざ思い切って言ってみたら、こんな風に一蹴された経験、ありませんか?

好きな歌をシェアする。自分が聴きたい曲をシェアする。それは日常によくある風景ながら、実は自分の生々しい部分や繊細な部分をさらけ出す行為です。

だからこそ、それが受け止められなかったら、すごく悲しい。時には恥ずかしくすらなる。私もプライベートでは、過去に何度も痛い目にあっています。

がっぷり相手と組み合うのが億劫で、すれ違うぐらいの方がむしろ安全に思える人間関係なら、痛くてもそれはそれで我慢すれば済む。当時は、気恥ずかしさやどこか裏切られた気持ちを横に置き、一瞬さらけ出したものをさっと手元に戻し、何事もなかったかのように淡々と関係を続けたように記憶しています。そして、シェアすることをいつしかやめました。

ただ、セラピストとしてセラピーの現場に入れば、話は変わります。プレイヤーの方が、自分に対して一瞬だけ見せる「あなたを信じてもいいだろうか」という真摯な問いかけ。それにイエスと言い、その気持ちに寄り添わなければ、セラピストとしてそこにいる意味がない。寄り添う、つまり、無条件にその人の「好き」や「聴きたい」を一旦受け止める。そのプロセスが絶対に必要だと思っています。

というわけで、ぶんせきゴリラくんとの対話にも書きましたが、私はプレイヤーの方がリクエストした曲、シェアしてくれた曲を、セッション中、セッション後を含めて最低でも三回は聴きます。

一回目は、なんだかんだ反発する感情も湧きます。でも三回ぐらい聞くと、体がその音楽に馴染み始め、いろいろなものに気がつくようになる。

すると、プレイヤーの方がなぜその曲を好きになったのか、聴きたいと思ったのか、あるいはなぜこれを私やグループのメンバーに聴かせようと思ったのか、そういうプレイヤーの心の地下鉱脈のようなところに、自分が降りていくことができるようになる気がします。

とまあ、長くなってしまいましたが、そんなわけで私は毎日、いろいろなジャンルのさまざまな歌や音楽に、結果として触れることになっているという感じです。

自分の判断を一旦保留にして、体に馴染むまで聴くと、大体のものは「おお、意外にいいじゃん」に変わるから不思議なものです。

そうやって、気づけばいつの間にか結構な量になってきた自分のプレイリスト。その中から、これからも「誰かにとって特別な」歌や音楽を紹介していけたらと思っています。

最後に、私が過去に思い切り拒否られた歌を。

ずっと昔、入院していた事がありました。痛みで眠れない夜を、当時よくラジオで流れていたこの歌が、埋めてくれました。そういう意味で特別な歌です。でも近しい人に、2回もダメ出しされました(涙)。

Blankey Jet City  “Sweet Days”


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。いただいたサポートは、難民の妊産婦さんと子供達、そしてLGBTTQQIP2SAAの方々への音楽療法による支援に使わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。