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ベルクソン『時間と自由』にて

ベルクソンが使うフランス語や英語では時間を空間化して表現します。その影響もあって、日本語の表現も、ますます、そうなったと思われます。それで、たとえば、自分の前が未来で後ろが過去というイメージが、言語活動によって、日々、醸成されています。ちなみに、そういう意味での記述が日本語に現れたのは、十二世紀になってからです。それ以前では、後ろが未来で前が過去というイメージの記述しかありません。

時間の考え方や表し方は、言語によって異なります。
いや、考え方や表し方の違いが、言語に蓄積されたと言うべきか。

伝統的なアフリカ人の時間意識には「未来が存在しない」、という記述が、真木悠介『時間の比較社会学』(岩波現代文庫)p.36にあります。それも併せると、時間の考え方は、次のように変化してきたと思います。

かつては、各個人の内で、未来(将来性・時間・自由・純粋持続・文脈)を自覚していました。しかし、言語の発達にともない、未来が外に追い出されます。未来はいまだ実現していないのだから、見えない後ろを未来の象徴とし、見える前を過去の象徴としたのです。その後、詩人たちが韻を踏んで、リズムを作り、内とのつながりを維持してきたのですが、内とのつながりを忘れて、未来は、目の前にある表現に落ちてしまったのです。

ところで、西洋人の文章は、文脈ではなく、論理で展開します。西洋人は、文脈を忘れつつあったのです。英語に、コンテクストという言葉がありますが、その実体は、場面であり、リズム(脈)がないのです。

ベルクソンは、西洋人が忘れつつあった「文脈」を、改めて「純粋持続」という哲学用語で、取り戻したのではないでしょうか。

 私たちの内部にある持続とは何か。数とは何の類似性ももたない質的多様性である。有機的発展であるが、増大する量ではない。純粋な異質性であるが、そのなかにははっきり区別された質というものはない。要するに、内的持続の諸瞬間は相互に外在的ではないのである。
 持続のうちで何が私たちの外部に存在するか。現在だけである。あるいは、こういう言い方のほうがよければ、同時性だけである。――p.270

 たいていの場合、私たちは自分自身に外的に生きており、自我については、その色褪せた亡霊、純粋持続が空間のなかに投影する影にしか気づかない。したがって、私たちの生存は、時間におけるよりも、むしろ空間において繰り拡げられる。私たちは私たちに対してよりは、むしろ外界に対して生きている。私たちは、考えるよりも、むしろ話す。私たちは自ら行動するよりも、むしろ「行動させられる」。自由に行動するということは、自己を取り戻すことであり、純粋持続のなかに身を置き直すことなのである。――p.276

結論「常識への帰還」

以上、言語学的制約から自由になるために。