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ベルクソン『時間と自由』にて(ホピ語)

今回の記事は、過去の記事「ベルクソン『時間と自由』にて」の追記です。

アメリカの先住民、ホピ族のホピ語には、西洋人が直観する「時間」に相当する表現がありません。しかし、彼らは、ベルクソン用語の「純粋持続」に相当する感覚を生きているのかもしれません。

ホーピ語は無時間的な言語と呼ぶことができよう。それは心理的な時間を認めており、これはベルクソンの持続というのに近い。

――B・L・ウォーフ『言語・思考・現実』(講談社学術文庫)p.160

要約しよう。冒頭で出したわれわれの第一の問いについては次のように答えられよう。「時間」と「質料」の概念はすべての人間に実質的に同じ形で与えられているわけでなく、それを形づくってきたところの言語の性格によって決まる。そのような概念は、文法の中の何か一つの体系(例えば時制とか名詞)によって決まるというよりは、むしろ、経験をいかに分析し報告するかによっている。これが言語の中に「言い廻し」として繰り入れられて固定し、いくつかの典型的な文法的分類にまたがって現れる。その結果、このような「言い廻し」の中には、語彙、形態論、統語論に属する手段および、その他のさまざまな体系的な手段が一定の首尾一貫した枠内で統合された形で含まれるのである。われわれのいう「時間」はホーピ族のいう「持続」とは著しく異なっている。われわれの空間は厳密に限定された空間のようなもの、または、時にはそのような空間の中における運動として考えられ、知的手段としてもそのように使われるのである。ホーピ語でいう「持続」は空間とか運動という観点からは考えられず、生命と形式との差異、全体としての意識と意識の中の空間的要素の差異の様式なのである。われわれのもつ時間の概念から生まれたいくつかの考え方、例えば、絶対的な意味での同時性というようなことは、ホーピ的な考え方では大変表現が難しいか、意味をなさないかのどちらかであり、操作的な概念によって置き換えられる。われわれの言う「質料」とは「物質」、「材料」の一つの下位区分であり、無定型で延長をもつもので、本当の意味で存在するためには形態と結びつかなくてはならないというものである。ホーピ語では、それに相当するようなものはないようである。無定型で延長をもつというようなものはない。存在は形を持つこともあるし、持たないこともある。しかし、形があろうがなかろうが、それがとにかく持っているものは強度と持続性で、これらは非延長的なものであり、根柢においては同一のものである。

――B・L・ウォーフ『言語・思考・現実』(講談社学術文庫)pp.137-138

ここで引用したウォーフには、次のような言語観があります。

表現者が、「言い廻し」つまり「文法」を発明しており、その文法に基づいて、必要な語彙、形態論、統語論などが育まれる、みたいな。

以上、言語学的制約から自由になるために。