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B・L・ウォーフ『言語・思考・現実』にて(言語学とは)

マヤ族の失われた文字体系とか、メキシコのアズテク族やアリゾナ州のホピ族の言語も研究する、ウォーフの言語観はきわめて貴重です。

言語学者がさまざまの異なったパターンの言語を多く調査することができるようになった時、彼らの知識の基盤が拡がった。その結果これまで普遍的であると考えられてきた現象にも断絶が経験され、新しい次元でのさまざまな意味合いが一挙にその視野の中に入ってきた。個々の言語の背景的な言語体系(つまり、その文法)は、単に考えを表明するためだけの再生の手段ではなくて、それ自身、考えを形成するものであり、個人の知的活動、すなわち、自分の得た印象を分析したり、自分の蓄えた知識を総合したりするための指針であり、手引きであるということがわかったのである。考えをまとめるということは、古い意味での厳密に理性的な独立の過程ではなく、個々の言語の文法の一部であって、文法が違えば多かれ少なかれ異なってくるものなのである。われわれは、生まれつき身につけた言語の規定する線にそって自然を分割する。われわれが現象世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは、それらが、観察者にすぐ面して存在しているからというのではない。そうではなくて、この世界というものは、さまざまな印象の変転きわまりない流れとして提示されており、それをわれわれの心――つまり、われわれの心の中にある言語体系というのと大体同じもの――が体系づけなくてはならないということなのである。われわれは自然を分割し、概念の形にまとめ上げ、現に見られるような意味を与えていく。そういうことができるのは、それをかくかくの仕方で体系化しようという合意にわれわれも関与しているからというのが主な理由であり、その合意はわれわれの言語社会全体で行われ、われわれの言語のパターンとしてコード化されているのである。もちろん、この合意は暗黙のもので明文化などはされていない。しかし、ここに含まれる規定は絶対的に服従を要求するものである。この合意に基づいて定められているようなデータの体系化や分類に従うことなしには、われわれは話すことすらできないのである。

――pp.152-153「科学と言語学」

言語や心理に関する現象では、有意義的な行動(あるいは、両者がたがいに関連し合うものとして捉えられる限りは行動と意義と言っても同じことである)は特定の体系ないしは仕組みによって支配されており、その体系なり仕組みなりは、個々の言語に特徴的な形式原理の「幾何学」とでも言うべきものである。この仕組みは個人の意識という狭い範囲の外から課せられるものであり、意識をまるで人形のように操って言語の使用を感知することも断つこともできないようなパターンの束縛の中に閉じ込めてしまう。個人の心は語を選びはするがパターンの方はほとんど記憶にとどめていないが、たとえて言うならば、そのような心がもっと高度なもっと知的な精神に掌握されているとでもいった状態にあるのである。この精神は、家とかベッドとかスープなべが何であるかはほとんど知らないのであるが、それでいてかつていかなる学派の数学者も達しえなかったほどの規模と範囲でもって体系づけを行い、数学的処理をなしうるものなのである。

――pp.209-210「言語と精神と現実」

言語学者は、言語の定義を試みながら、人間を探究しています。

以上、言語学的制約から自由になるために。