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真木悠介『時間の比較社会学』にて

原始諸部族の時間意識が面白い。いくつかの具体例が記されています。

それで、多様な時間意識は次のように統一されたようです。

生活の基本的なサイクルを異にしている共同体との交渉が日常化するときにはじめて、あるいは共同体自体が風化して、生活のサイクルを異にしている諸集団や諸個人の対峙しているシステムとなったときにはじめて、狩猟や雨期や収穫といった具象的な事物や活動から「時間」が剥離して抽象化される。すなわち「時間」が、具体的な事象にたいして外在する客観的な尺度として物象化される。
異質の生活世界のあいだの共通の照合点として、時間の「数字的な日付け」ははじめて要請される。のちにみるように古代から近代にかけて、ある地域や民族の政治的統一が暦の統一を、すなわち共通時間の制定を要請するのはこのためである。

――p.86

日本では、天皇が、時の支配者として現れたと思われます。

さて、近代社会では直線的な時間が支配的です。

テレビジョンは、市民社会の最後の単位共同体である家族、古典的な市民社会における「聖域」たるブラック・ボックスであった「私生活」の内部に、客観化され計量化され管理化された時間の秩序をうちこむ。

――p.288

英語の文法も直線的な時間を強制してますけどね。

そのような時間に囚われると、今ここを満たす幸福に気づけなくなります。幸福を未来や過去に探そうとしたり、幸福の取引をしようとしたり。

ヘブライズムの線分的な時間、ヘレニズムの円環的な時間、原始共同体の反復的な時間。時間のあり方はもっと自由で良いのです。

以上、言語学的制約から自由になるために。