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伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて(純粋詩の目的)

ヴァレリーに習い、身体のリズム(要求応答の呼応関係)に注目します。第Ⅲ部「身体」の第一章「《主観的》な感覚」から取り出したい。

 静寂は――聴取機能の継続を表現する言葉である。聴取=ゼロだが、聴取性は存在し、知覚される――期待という形で。純粋な聞く能力の知覚――応答がない。感じないということを感じる。
 感覚する個々の器官は自分の意志によって動かされる調整器官と結びつけられている。聞くこと=聞きたいと思うこと=聞くように強制されていること。見ること=見たいと思うこと。嗅ぐこと=感じたいと思うこと。
 静寂=聞きたいと思うことの連続。
 これらの器官は興奮の領域にある欠如や障害を乗り越え、制し、それを打ち抜き、ゼロをしかじかの刺激で置き換えたり、逆にゼロにもかかわらずしかじかの刺激を保持したりすることを可能にする。
 このことは、調整の装置から機能として切り離されたなまの感覚を考察することになる。――pp.230-231

―― 第Ⅲ部「身体」 第一章「《主観的》な感覚」

 精神の身体
(……)
《事物の自然な流れ》は、この《身体》に、特有の無感覚を要求する――これは正常な行為の大部分における無感覚と比較しうる。この無感覚は、行為のある部分を、行為がそれに適合し従っている思考や感覚と混同し、別のある部分は、私たちが触れているものと混同することを可能にしているものである。
(……)
 要するに、すべての認識に要求される感性とは、通常無感覚である。生きる器官が認識されず、その働きが、感覚や知覚や思考や(たいした努力も特別な調節も必要としないような)単純な運動行為の産物のうちにさえ吸収されるような仕方で。
 そういうわけで、目は、通常の視覚のうちに自身を感じさせない。見られたものは、目について語らない。同様に、精神的なやりとりも、その対象である組み合わせや置換がそのまま精神であるかのようである。機能が、その産物と即座に混同されるということがある。認識すること、考えること等は、機能作用であり、その結果については、――部分的にはこの組織に依存しなければならない。――pp.232-233

―― 第Ⅲ部「身体」 第一章「《主観的》な感覚」

事物の自然な流れから取り出す情報が、身体的な諸器官のリズムで無意識的に受信されていることを、私たちはすっかり忘れているのだ。

 ヴァレリーが私たちにうながすのは、このように「透明」と思われている私たちの身体的な諸器官が、実は「不透明」であることへの気づきである。「隠れているもの、あらわにならないものが、知られていることを《作り》、《産出し》、《条件づけている》のである」ここに、病的な傾向にもつながる「主観的な」感覚にヴァレリーが注目する意図がある。私たちの正常な知覚や思考は、それが基づき、それを条件づけてもいる私たちの身体の諸器官を「無感覚なもの」として処理することのうえに成立している。しかしそれは単なる「混同」であって、本当は「透明」なものではない。――p.234

―― 第Ⅲ部「身体」 第一章「《主観的》な感覚」

ヴァレリーによる純粋詩の目的は、読者の身体のリズムに介入して、頭(マインド)と身体のつながりを再構築させることにある、とのこと。

以上、言語学的制約から自由になるために。

この書物に触れる記事は六つあります。次の「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて(錯綜体)」という記事が、それらのまとめです。