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鴻上尚史『世間ってなんだ』にて

この書物は、「世間」と「社会」の違いにこだわるエッセー集です。

「社会」と「世間」の違いをよく分かってない日本人は、クレームに対してとても弱いです。どんなTVCMも、クレームの電話数本でオンエア中止になります。
 お客様は神様だから、その言葉は「世間」様の声で、従うべき身内の指摘だと思うのです。
 でも、それは「社会」の声です。神様ではなく他人の声です。客観的に分析し、実証し、判断するべきデータなのです。――pp.60-61

「社会」は、自分と関係ない人達の集まりですから、ちゃんと法が支配しないと「万人の万人に対する闘争」になるというのが歴史の証言です。
「世間」は、自分と関係のある人達の集団ですから、「法のルール」ではなく、「気持ち」とか「絆」「おもいやり」「情」などがルールになります。
 で、「社会」がほとんど存在せず、中途半端に壊れた「世間」に生きている私達日本人を強く縛るものは「法のルール」よりも、「思い」とか「つながり」になっています。――pp.70-71

―― 2「「迷惑」について」

 欧米には「世間」という身内が集まる空間と「社会」という知らない人が集まる空間の区別はありません。
 というか、11世紀から12世紀にかけて、キリスト教が綿密に「世間」を消していきました。頼るべきは、「世間」ではなく、「神」だと教えるために〔詳しいことを知りたい方は、拙著『「空気」と「世間」』(講談社現代新書)か『「空気」を読んでも従わない:生き苦しさからラクになる』(岩波ジュニア新書)をよろしければお読みください〕。
 結果、欧米では、「自分とはまったく関係のない人達と話す言葉」や「コミュニケイション技術」が発達したのです。というか、生き延びるためには、発達させざるを得なかったのです。――pp.125-126

 昔、「世間」が充分に機能して、私達を守ってくれて、収入から結婚、あらゆる面倒を見てくれていた時代は、「社会」なんかありませんでした。村落共同体や会社共同体のルールに従っていれば良かったのです。
 でも、今、「世間」は中途半端に壊れて、私達を守ってくれなくなりました。そのため、「社会」と会話する技術を身につけることが苦しみを和らげ、生き延びる最も重要な方法だと思っているのです。――p.127

―― 4「クレーマーに振り回されるわけ」

世間と社会の違いを、私は、話し言葉と書き言葉の違いで区別します。話し言葉が信用できない人とは世間を共有することが難しいし、書き言葉が信用できない人とは社会を共有することが難しいと思うのです。

世間、話し言葉、道徳、自分
個人の確立
社会、書き言葉、法律、自己

日本人は、明治以降、解体の進む世間が、韓国や中国の世間に介入されて、世間のカオスに翻弄されています。かといって、社会づくりが進んでいるかというと、模範となる個人が確立できないまま、欧米社会に追従しているため、世間の道徳で社会を叱ってみたり、社会の法律で世間を罰してみたり、世間の自分をそのまま社会の自己としてみたり・・・。

日本社会がどうあるべきかを本当に議論できるようになることや、男性性が悪態をつく世間ではなく、女性性が優位な世間が復活することも、模範となる個人が続々と誕生し出してからではないだろうか。

以上、言語学的制約から自由になるために。