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八尺鏡野と長森の神風串呂(№53)

この記事は、神皇正統家極秘伝神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

串呂(クシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した元伊勢クシロの事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。

ここでは、「和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の八尺鏡野と新潟県南魚沼市の長森の神風串呂」をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!


1、興国天皇(守永)の串呂哲学上の符号

三浦芳聖が解明した、興国天皇(守永)の串呂哲学上の符号には、

長森(ながもり)、守義(もりよし)、上野(うえの・うわの・かみの)、上野宮(かみのみや)などがある。

上野は、守永親王時代に、上野太守こうずけのたいしゅに就任していたことによる。(「新葉和歌集」には上野太守守永親王となっている。)

興味深いのは、森茂(もりも、岐阜県飛騨市神岡町)という地名で、守永天皇と中宮の藤原茂子が一時隠れていた隠棲地だが、守永の守(もり)と茂子の茂を一字ずつ取った地名が残っているばかりでなく、実際に「後醍醐天皇の次の天皇が隠れていた」という伝承が残されていたというのである。

この話は、戦後、愛知県豊川市萩町(当時は宝飯郡音羽町萩村)の仮寓の地で修行中の三浦芳聖への神霊界からの霊示(後醍醐天皇が毎日のようにやって来られて、上記のような情報を教えてくれた)で、

ここに興国天皇(守永)と中宮の藤原茂子が一時潜伏していた隠棲地だと知らされた三浦芳聖が調査に行ったところ、森茂には「後醍醐天皇の次の天皇が隠れていた」という伝承が残されていました。

このようにして、串呂の地文を構築された串呂主宰神のご苦心を偲びながら、今回は「八尺鏡野」と「長森」との神風串呂をご紹介します。

2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。

3、八尺鏡野と長森との神風串呂

三浦芳聖は神皇正統の皇位継承を昭示(あるいは鑑定)する重要串呂起点である「八尺鏡野」(那智勝浦町)と興国天皇(守永)を表わす地文である「長森」(新潟県南魚沼市)とを串呂すると次の様になると述べています。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第三章

八尺鏡野」(那智勝浦町)-「登玉」(上松町)-「長森」(南魚沼市)

(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』124頁、現住所に改めた。)

【地文のみ掲載】
「八尺鏡野」-「登玉」-「長森」

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)八尺鏡野(やたがの、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)

八尺鏡野(やたがの)は、八咫鏡(やたのかがみ)を表わす地文。八咫鏡は日本神話に出てくる皇位継承に不可欠の神宝(三種の神器)の一つ。八咫鏡は、三種の神器(鏡、玉、剣)の中で最も重要とされる。

串呂では、「八尺鏡野」は、皇位継承(神皇正統の天皇に登極した事)を昭示する(鑑定する)地文で、八大串呂起点。

【参照】詳細はこちらを参照下さい。
【参照】八尺鏡野と高御位山の神風串呂

(2)登玉(のぼりだま、長野県木曽郡上松町大字荻原)

画像2
長野県木曽郡上松町大字荻原 登玉(地図マピオン)

登玉は、「とうぎょく」と読めるので、登極(とうぎょく)を表わす地文。

「登極」は、天子の位につくこと。登祚(とうそ)ともいう。「極」は最高の位を意味する。国内唯一の地名。

リンクの地図は右上の「地理院地図Vector」をクリックすると見られます。

(3)長森(ながもり、新潟県南魚沼市)

長森2
新潟県南魚沼市 長森(地図マピオン)

守永(もりなが)天皇の符号。長森(ながもり)=森長=守永(もりなが)。興国天皇(守永)をあらわす地文のひとつ。上下転換語。

三浦芳聖が解明した興国天皇(守永)をあらわす主な地文(符号)には、このほか下記がある。

守義(愛知県新城市作手)・・・守義(もりよし)=守良(もりよし・もりなが)=守永(もりなが)

森茂(もりも、岐阜県飛騨市神岡町)・・・守永+茂子(中宮)÷2=森茂

上野宮(かみのみや、茨城県久慈郡大子町)・・・上野太守・守永親王

上野(うえの、うわの、かみの、他)・・・上野太守・守永親王

小高(おだか)=小鷹(おだか・こたか)・・・尊良天皇=大高(鷹)、守永天皇=小高=小鷹。

【参照】『ウィキペディア(Wikipedia)』後醍醐天皇#皇子の名の読み

興国天皇(守永)は、生涯を通して東日本各地を転戦したため、東日本各地に伝説地が数多くあり、別称・異名も下記の様にたくさんある。危険から身を守るために名前を変えたことも考えられる。

大統宮おおとうのみや上野宮こうずけのみや五辻宮いつじのみや、白山宮、宇津峯宮うづみねのみや、信濃宮、尹良親王、稲若親王、陸奥親王、小鷹様。

『宇津峰宮- Wikipedia』より
【宇津峰宮(うづみねのみや、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。諱・系譜ともに不詳であるものの、近世の俗書においては、後醍醐天皇の孫で、中務卿尊良親王の王子に当たるという守永親王(もりながしんのう)に比定されることが多い。宮号は、北畠顕信に奉じられて陸奥宇津峰城に拠ったことに由来する。

興国4年/康永2年(1343年)常陸合戦の戦況が好転しない最中に吉野から下向し、5月常陸関城の北畠親房に迎え入れられた。同年11月に関城・大宝城が陥落した後は、残兵に守られながら陸奥に逃れ、北畠顕信の宇津峰城に入ったとみられる。

正平2年/貞和3年(1347年)7月奥州管領吉良貞家・畠山国氏ら北軍の攻撃を受け、9月に宇津峰城が陥落すると、顕信に奉じられて一旦出羽(庄内地方か)へ逃れた。その後に足利一族間の内訌(観応の擾乱)が地方にも波及して、吉良・畠山両管領の分裂が激しくなると、正平6年/観応2年(1351年)10月伊達宗遠や田村庄司の一族を率いて多賀国府を攻撃して奪回し、11月には吉良貞家を名取川に破って伊具館へ敗走させた。

正平7年/観応3年(1352年)閏2月尊氏の党を討たんとする顕信に奉じられて伊達郡へ出陣したが、3月その隙を突いた吉良貞経によって国府が再び占領されたため、顕信とともに三沢城から大波城へ逃れ、やがて宇津峰城に籠城する。

以来1年有余に及ぶ貞家との攻防戦を経て、翌正平8年/文和2年(1353年)5月に宇津峰城が陥落すると、顕信・守親父子に奉じられて再び出羽へ逃れた。しばらくは出羽の各地に潜伏して奥羽南軍の統率に当たったとみられるが、以後の消息は明らかでない。】

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

「八尺鏡野」-「登玉」-「長森」

興国天皇(守永)は神皇正統の天皇の位についた。登極した。

守永親王(興国天皇)が、天津日嗣の高御座に登極(とうぎょく)したことを立証する神風串呂のひとつです。

八尺鏡野やたがの」も「登玉のぼりだま」も神皇正統の天皇の位に就いたかどうかを昭示(あるいは鑑定)する重要地文です。この二つの重要地文を串線した延長線上に守永天皇の符号「長森」が串呂する実に神秘的な神風串呂です。

興国天皇(守永)が高御座に登極したことを立証する神風串呂は下記を参照して下さい。下記は、いずれも興国天皇(守永)が、御父・尊良天皇とセット(一色=一式)で、串呂が構築されています。

それは、尊良天皇が、後醍醐天皇から皇位を継承するとき、将来、必ず、興国天皇(守永)に譲位する事という条件付きだった為だと言われています。

尊良天皇の在位期間が約五ヶ月間と短かったためか、三浦家の系図には、興国天皇(守永)が、直接、後醍醐天皇から皇位を継承したと記されてあったそうです。

ア、八尺鏡野と高御位山の神風串呂
上野」-「与位」-「高長」-「高御位山」-「八尺鏡野」

イ、御在所山と金ヶ崎神宮の神風串呂
「金ヶ崎神宮」-「御在所山」-「国府町」-「上野」-「内宮」

今回ご紹介しました、串呂は、「八尺鏡野」-「登玉」-「長森」という地文が三つあるだけの串呂ですが、この串呂を構築するために、串呂主宰神が長期間にわたって、どれだけ御苦心されたか、想像することもできないほど大変だった事と思います。


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🟡情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

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一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№52)
🟢次号(№54)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会 
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。