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南朝正統皇位継承論5-三河吉野朝の伝説

三河吉野朝の伝説

インターネットで「三河吉野町」について検索していたら、下記の記事が出ていたので転載させて頂きました。豊川市の「市勢要覧 昭和28年版」よりの引用だそうで、よくまとまっています。

1、三河吉野朝とは

御津町御所

三河吉野朝「御津府」の痕跡を残す地名「御所」「都橋」「御馬」「玉袋」「剣(つるぎ)」「加美(かがみ)」が見られる豊川市御津町下佐脇一帯の地図(クリックで拡大します)

三河吉野朝について(豊川市の「市勢要覧 昭和28年版」より)
 南朝3世4世代即ち第96代後醍醐天皇から後村上、長慶、後亀山天皇にいたる57年の都が大和吉野のみでなく、そのうちの12年が三河南朝であったことが明らかとなって三河吉野朝と名付けられたのである。
 大正15年10月21日第98代に登録せられた長慶天皇は興国3年後村上天皇の第一皇子として三州丹野で御出生になり、御油隠れ沢天台宗明燈院で御成人、正平23年3月11日御父後村上天皇の崩御によって三河御津の御所宮〔御駒〕に践詐、時に御齢27才であらせられた。御在位5年、文中2年8月異母皇太弟後亀山天皇に御譲位になって、御油隠れ沢の明燈院を望理原王田淵〔市内小田淵町〕に移築して遷御せられ、天授5年9月20日御齢38才で崩御にいたるまで7年間院政を御執りになった。
 此の御所宮在位5ヶ年と小田淵仙洞御所世に云う王田殿院政7ヶ年計12ヶ年が三河吉野朝の時代であり、三河は今から五百数拾年の昔南朝終焉の地であった。
 尚豊川市及び宝飯郡には「御」のつく字を始め、尊貴の地名が数多く残されており、皇居が此の地に在ったことを裏付けている。即ち御油、御所宮、御所川、仙路、都、つるぎ、玉袋、かがみ、院内、院之子、三尊子、天皇山などそれで、前に記した王田殿も小田淵の御殿の意で、小田淵もと王田淵でみかどが御住いになったので王田の名が生れ、市内森町に日落〔ひおち〕の地名があるが、天子の崩御即ち日落つの意味であろう。
 (「水石の美を求めて 東三河の秦氏  その64  持統上皇東三河行幸の謎」仮名遣いを現代仮名遣いに改め、数字をアラビヤ数字に変換しました。)

上記の出典は下記の書物だと思いますが、山口保吉氏の書物を拝見すると、三河吉野朝の始まりは「興国」と改元された1340年の事で、北畠親房が幼帝後村上院を補佐して新宮殿建設中は三河多賀の里(蒲郡市相良町)を行宮とし、完成後は御所宮(御津町)にお住まいになったと記されてあります。

山口保吉『三河吉野朝の研究』(山口究宗堂、1940年)
山口保吉『芳花鶴水園の聖地』(山口究宗堂、1943年)
中西久次郎・家田富貴男『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』(三河吉野朝聖蹟研究所、1940年)

2、三河吉野朝は実在した

三河吉野朝が存在した事は、残念ながら現在の歴史学会では認められていません。そこで先ず「三河吉野朝の崩壊」(青木文献)、「前帝長慶院と皇太后富士谷に潜行」(長慶天皇紀略)の二つの文献を引用して、確かに三河に南朝の御所が存在した事を確認する所から話を進めて行きたいと思います。

(1)青木文献

青木文献には正平23年(1368年)3月後村上帝崩御後、即位された長慶天皇は、吉野から三州御所宮に移住し、法皇になって明燈院(豊川市御油町)から望理原(豊川市小田淵町)と呼ばれる錦門御堂(王田殿)に移られ、天授5年(1379年)9月20日に崩御されたと記録されています。

小田渕望理神社

望理原王田殿のあった「豊川市小田淵町」

青木文献(別名千種文献)とは、愛知県豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が、応永30年(1423年)と31年(1424年)に書き残した覚え書の事です。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』中西久次郎・家田富貴男/1940年)

長慶天皇
 諱寛成後村上帝第一子也未詳出所正平二十三年三月後村上帝崩御天皇即位
 於行宮
 薙髪法名覚理号長慶院法皇崩王田殿天授五年九月二十日法名金剛心院皇夫
 大士

(前略)数年後吉野宮下三州御所宮在位覚理法皇成望理原於明燈院移錦門御堂住給東西四百五十間南北五百三十間王地南檜殿北長勝寺西高前寺東馬込殿成

(2)長慶天皇紀略

『長慶天皇紀略』には、上記の「青木文献」の記事と符節をあわせる如く、天授5年(1379年)8月15日に、前帝長慶院と皇太后が摂津国浪花港より、海路伊勢に渡幸し、9月5日、密かに富士谷に潜行し小室城宮下の舘に入られたという記録が有ります。

小室城地図1

『富士谷 長慶院仙洞御所略図』より一部を転載させて頂きました。

『長慶天皇紀略』とは、三輪義凞が「宮下文書」の中から後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、その他についての関連資料をまとめて大正13年(1924年)博進館から出版された著書のことです。

宮下文書(みやしたもんじょ)とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)の北東本宮小室浅間神社(旧称阿曽谷宮守神社)、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。(『ウィキペディア』宮下文書

天授五己未年九月五日、前帝長慶院、皇太后と陰に富士谷に潜行なる。是より先、八月十五日の夜、院は密に、楠木左馬頭正儀・和田和泉守正武等と議り、正儀の嫡男太郎正興、正武の三男三郎正久等に、衛護せられ、楠木二郎正光を嚮導として摂津國浪花港より、海路伊勢に渡幸なる。北畠伊勢守顕能の舘に入らせ給ふ。数日の後、又航して、駿河國吉原濱の、浮島沼に着御あらせられ、先づ、大宮驛に一宿し給ひ、旦日富士谷小室城宮下の舘に入御あらせらる。(三輪義凞『長慶天皇紀略』55頁)

大明見

富士谷御所(小室城宮下の舘)のあった「富士吉田市大明見」

【参照】長慶院法皇

(3)八板千尋『大楠公秘史』

然るに最近発見したる伊良湖岬常光寺調査資料に依れば、正勝は金剛山の戰に敗れて十津川方面に逃れ、大和より伊勢を經て渥美半島伊良湖岬に渡り、同地は烏丸家の守護地にして烏丸資任卿、日野有光卿等と力を合せ弟正秀、正元、我子の義和と共に朝權の恢復に盡せしも宗良親王幾くもなく薨去し給ひ、王子尹良親王征東將軍と成らせ給ひしを以て之を奉じて三河國に三河吉野朝建立を相圖り、南朝中興天皇を奉戴し(後亀山天皇皇子小倉宮の第三皇子尊忠王)安穏要害の地、伊良湖岬の別天地に行宮を祕營し、天皇を迎へ奉護す、中興南朝は二代、十有六年にして終焉を告げしが、正勝は小久保輝信と名を改め、長祿三年十月九日九十五歳の高齢を以て此地に歿し、常光寺に葬られ法名を天光院殿上輝信大居士と謚す、同寺に墓碑あり、後裔は當代に至る迄歴然と續き居れり、正勝の位牌其多数多の書類等あり。是れに依り正勝が伊良湖岬に烏丸卿を頼り南朝再興に活動したる事歴と父正儀が三河國望王里郷の行宮に、長慶天皇を奉衛したる事、諸公卿の盡忠等對照し當時の全貌を窺知し、大に首肯せしむるものあり。(八板千尋『大楠公秘史』143頁)
 (南北朝時代を斬る!漁る!萌える!

(4)藤原石山氏の解説

上記の二つの文献により、長慶天皇が即位後、三河に住んでおられたことは間違いないと思われますが、「三河吉野朝について」南朝史学会の藤原石山氏の解説が有りますので見て行きましょう。〔 〕内は編集者、数字はアラビヤ数字に変換し誤字は訂正しました。

 正平23年〔1368年〕長慶天皇には、吉野の朝廷を皇弟熈成親王(後亀山天皇)に委ね、三河に移り南朝正統の皇子を守護することに専念せらるることになった。後醍醐天皇の皇女の懽子内親王も来国し、三河吉野朝の基礎は確立することとなったが、天授3年〔1377年〕足利氏の崩壊作戦で畠山基国が叛き、吉野から楠正儀も天授3年と同4年再度来援したが、信州勢の援軍のため南軍は十重、二十重の情態となり多勢に無勢終いに天授5年〔1379年〕9月三河吉野朝は崩壊した。楠正儀も三吉原で戦死し長慶天皇や南朝正統の皇子は富士谷の隠城に逃れた。
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』2頁)

 『青木文献』には〝長慶天皇天授5年9月20日王田殿に崩御〟と誌されている。長慶天皇の唯一の宸筆とされている高野山に所蔵される太上天皇寛成と署名された願文には、〝元中二季九月十日〟とあって、天授5年から10年後まだ生存になっており、天授5年崩御説は他の伝説地にもあり、学界の謎とされていた。ところが和歌山県九度山町明野宮の伝えによると、懽子内親王が天授5年〔1379年〕9月20日玉川宮で長慶天皇の身代わりとなって自刃され長慶門院と尊称したことが伝えられている。この地方ではこの皇女を亀石弁財天として祀っている。(『長慶天皇御陵考』『長慶天皇史抄』)
 これは、小室門院元子内親王が三河の佐脇の御所(宝飯郡御津町)に行在せられ、北朝方の攻むるところとなり、豊川市国府町小田淵附近の王田殿に於いて懽子内親王が身代わりとなり薨くなられたことを伝えるものである。小室門院には天授5年9月三河で崩御した如く世間に見せひそかに富士谷の隠れ城に移ったのである。
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』11頁)

【参照】宣政門院懽子内親王、懽子(きんし・よしこ)内親王

豊川市御津町佐脇神社の末社に、御所宮と称する古社があって、従来持統天皇の三河御幸の聖蹟と伝えていたが、附近に〝つるぎ、たまぶくろ〟等の地名があり、持統天皇は、大宝二年位を皇孫の文武天皇に譲られ上皇となって三河に御幸されたるもので、三種の神器を奉持して御幸される由なく、『青木文献』『小久保文献』等の発見以来、南朝の正統が、大覚寺統の宮内の庄のある三河に遷都あって、御所を設け当国を中心として、治国平天下の基を開いたとする三河吉野朝の存在が主張せられた。(三河吉野朝の研究、芳花鶴水園の聖地、長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣、大楠公秘史)
 (藤原石山著『南朝正統皇位継承論』1988年版93頁)

(5)結語

『青木文献』(愛知県豊川市)と『長慶天皇紀略』(山梨県富士吉田市)の二つの古文書が、符節をあわせる如くに「天授5年(1379年)9月」に三河で戦乱があり、『青木文献』では、長慶天皇が崩御され、『長慶天皇紀略』では、富士谷の御所へ潜行されたと出ています。

藤原石山氏の解説にあるように、長慶天皇は、元中2年(1385年)9月10日紀伊の天野行宮に於て丹生明神に戦勝を祈願され「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めたことが明らかになっていますので、

長慶天皇は天授5年(1379年)9月三河の御所に住んでいて戦乱に巻き込まれたが、宣政門院懽子内親王が身代わりになり、辛くも難を逃れて富士谷に潜行されたことが明らかになりました。

また『大楠公秘史』により、「正勝が伊良湖岬に烏丸卿を頼り南朝再興に活動したる事歴と父正儀が三河國望王里郷の行宮に、長慶天皇を奉衛したる事」などが明らかとなりました。

こうした事から、三河吉野朝は確かに存在したと断定できると思います。

ここで、注意を要するのは、「懽子内親王」という女性が身代わりになって亡くなっている事です。藤原石山氏の解説のように、天授5年(1379年)9月当時、三河吉野朝の主人公は北陸朝廷の皇位継承者「小室門院元子内親王」だったという事ではないでしょうか。

【参照】皇位継承者を昭示する「小室門院元子内親王の神風串呂

⛩皇大神宮内宮と妙覚塚の神風串呂(№73)
鏡池」-「小松」-「大神」-「大己屋山」-「愛宕山」-「⛩皇大神宮内宮」-「小室門院御陵・妙覚塚」

御正体山と妙覚塚との神風串呂(№74)
「小室門院御陵・妙覚塚」-「聖一色」-「御正体山」-「天覧山」-「大門」-「女体山」-「犬仏山」-「大黒山」-「日隠山」

一宮市の串作と妙覚塚との神風串呂(№78)
「小室町」-「串作」-「神殿」-「大日」-「小室門院御陵・妙覚塚」

【参照】小室門院元子内親王(№70)

譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めたが[注釈 7]、翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。(『ウィキペディア』長慶天皇


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