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南朝正統皇位継承論6-三河吉野朝の伝説2(三河吉野朝の新都「御津府」について)

三河吉野朝の伝説2(三河吉野朝の新都「御津府」について)

(1)三河吉野朝の新都「御津府」について

山口保吉著『三河吉野朝の研究』及び『芳花鶴水園の聖地』に依ると、延元4年(1339年)8月15日、後醍醐天皇崩御後、義良親王が吉野朝で践祚すると南朝の宮廷は、延元5年(1340年)4月28日、興国と改元し、三州宝飯郡御津府(愛知県豊川市御津町)に新都建設を計画し、

北畠親房が幼帝義良親王(後村上院)を補佐して、新宮殿建設中は三河多賀の里小畑(蒲郡市相良町小畑ケ)を行宮とし、完成後は御所宮(御津町御馬長床)にお住まいになったと記されています(先哲、古老の口碑伝承による)。

時の大納言北畠親房公、早くより糧道を伊勢国に求め補給を講ぜられしも、思うに任せず諸卿と合議の上一大決意の下に、本邦中第一の安全地を撰んで、御遷都を決行することとなる。
  (山口保吉著『三河吉野朝の研究』28頁)

新都「御津府」建設計画の根幹
*⛩熊野本宮と⛩伊勢神宮との串呂上に「⛩廟社神明宮」を建立する。
*知多半島の南端「羽豆城」(師崎)を海上権の掌握地とする。
*三河の安全で美養の地を大膳寮(食料供給地)とする。
*新都御津府の御所の所在地は「豊川市御津町御馬長床」。
*御所建設までの行宮を多賀の里小畑に置く(宮内荘)。

長床御所1

御所所在地「長床」の周囲に「剣(つるぎ)」「加美(かがみ)」「玉袋」「玉袋橋」「御所」「膳田」「御馬」「天神」などの地名が残っている。(クリックで拡大します。)

(2)三河吉野朝の霊線(神風串呂)

「船山の聖地と長慶寺九ヶ寺略図(国名ナキハ三河国内)」

山口保吉2

山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』からの転載、クリックで拡大します。

山口保吉氏によると、紀伊の⛩熊野本宮と⛩伊勢神宮とを結んだ串呂上に「⛩廟社神明宮」を建立し、同串呂上の丘陵に「後醍醐天皇の御剣と法華経巻」を納めて後醍醐天皇の副陵とし「天皇山」と名付け、この三河の地に新都を建設する事となったというのです。

神線とは未だ世間に知らざる人あらんを虞れ、其の意義を略述せんとす。吾皇室は天照大御神を第一に崇拝あらせ給へるは既に諸賢の知悉する所なり。大日本は神國なりと記せし通り。皇室の非常時に當り御遷都を定め給へるは大神と大神との貫線に定め給ふものである。これが皇国の神風線呂にして紀伊の熊野本宮と伊勢の神宮との一直線上の延線は三河國宮内荘の天皇山に當る。 後醍醐天皇吉野の行宮に崩御し給ひ塔尾陵へ納め奉り、御剣と法華経巻とは三河の天皇山に納め奉り、吉野町の中心地の宗神となし、都を神線上に定め給ふ。されば正平十四年四月二十九日新待賢門院御津府に崩し給ふや。例の天皇山下大原陵に納め奉つれるも右の神線に副ひ奉つれるなり。伊勢の神宮と天皇山の貫線に當る地点に廟社の存在は、天皇山の廟社にして俗称大墓御薗神明宮之なり。依て現今大塚と唱ふるは天皇山の存在による。其後吉野朝の皇陵の廟社となり。宮内荘に於ける異彩を放つ神明宮である。廟社と本宮山の中間貫線上は即ち天皇山と天龍寺に當りて 後醍醐天皇の奥院を神示する所なり。(山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』90頁)

船山御陵(天皇神社)を中心とする神風串呂
⛩伊勢神宮⛩廟社神明宮(大塚町)ー天皇山(相良町)ー国府町(豊川市)ー船山御陵(天皇神社)ー卍天龍寺(豊川市平尾町)ー本宮山(新城市)ー宇連山(新城市)ー聖山(山梨県)ー卍長慶寺(都留市)

(船山御陵の南西に豊川市国府町が串呂していますので追加しました。)

⛩廟社神明宮・・・・天皇山の廟社にして俗称大墓御薗神明宮
天皇山(相良町)・・・ 後醍醐天皇の副陵(御剣と法華経巻を奉納)
船山(八幡町上宿)・・ 天皇神社、小松天皇・長慶院法皇御陵、船山古墳

山口保吉『三河吉野朝の研究』(山口究宗堂、1940年)
山口保吉『芳花鶴水園の聖地』(山口究宗堂、1943年)

上記資料から分かる事は、興国元年(1340年)三河吉野朝の建設時に、串呂(神線・神風線呂)が考慮されていた事、そしてその内容が口碑として昭和時代まで伝承されていたという事です(山口保吉氏は御津町生まれ)。

ここから南朝の宮廷は、新都建設に当たって方位学(神風串呂)を意識していた事が明瞭ですし、また「延元」の次に「興国」と改元したのは、三河に新都を建設して新国家を興すという意味が込められていたと考えられ、三河吉野朝が存在したことは確実であると断言できると思います。

この串呂線上に、朝廷・政庁を表わす「豊川市国府町」が存在する事が判明し、神風串呂の的確さに驚いています。この豊川市国府町は、下記解説で詳述しますが、⛩石清水八幡宮・国府三串の神風串呂上の国府です。

主要地文だけ解説を掲載します。

⛩伊勢神宮ー⛩廟社神明宮ー天皇山ー国府町ー船山御陵ー天龍寺ー本宮山ー宇連山ー聖山ー卍長慶寺

(1)⛩皇大神宮内宮(こうたいじんぐうないくう、三・伊勢市宇治館町)

皇大神宮内宮

皇祖天照大御神をお祭りする「わが国二所の宗廟」の一つで、八大串呂起点のひとつ。天照大御神は、神風串呂の主宰神。

詳細はこちらをご覧ください。

(2)⛩廟社神明宮(びょうしゃしんめいぐう、愛・蒲郡市大塚町)

蒲郡市大塚町神明社

愛知県蒲郡市大塚町西屋敷74番地に在る神社で、現在は、神明社という。祭神は天照大御神、豊受皇大御神。

【由緒】大墓、大草、御園の地に興った古い神明社である。天文10辛丑年(1541年)大塚、城主岩瀬河内守氏安が再建という。社蔵の棟札に元和8年(1622年)12月23日、奉造営神明社廟社、祢宜小林五良大夫とある。

「神鳳抄」の神宮御厨の地の神明社で榊、神田、神田川という地名が残っている。明治5年2月、神明宮を神明社に改められ、同9年6月13日、村社に列し、同40年10月26日、指定社となる。昭和10年5月社殿を造営、同16年5月、幣殿、神庫を改造した。神明社(大塚町)

(3)天皇山(てんのうざん、愛・蒲郡市大塚町大字相良)
愛知県蒲郡市大塚町大字相良に在った丘陵で、現在は住宅地になっている。串呂哲学上の地文としては「大塚町」で、大きな墓(天皇の墓)を表わす。

この天皇山は後醍醐天皇の副陵で、そのため地名が「大塚」(大きな墓=後醍醐天皇の御陵)と名付けられ、廟社神明宮は、熊野本宮、伊勢神宮とこの天皇山を結んだ線上にあるので、俗称「大墓御薗神明宮」と言ったという。

(4)国府町(こう町、愛・豊川市)

豊川市国府町

国府は、国の府で朝廷を表わす地文。国府(こう、こくふ)は、日本の奈良時代から平安時代に、国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市があった所です。串呂では「国家の政務を執るところ=朝廷=皇居」と解釈します。

船山古墳の南西が名鉄国府駅(豊川市国府町)です。神秘的な事に、下記の串呂(№28)の「国府町」(豊川市)でリンクしています。

⛩伊勢神宮ー⛩廟社神明宮ー天皇山ー国府町ー船山御陵ー天龍寺ー本宮山ー宇連山ー聖山ー卍長慶寺

【参照】石清水八幡宮と三浦芳聖晩年の住所との神風串呂 (№28)
国府町地区-的場-天王-加賀美-大門-⛩石清水八幡宮-国府町・天王山-玉垣町-国府町(豊川市)-三浦芳聖晩年の住所

(5)船山御陵(ふなやま御陵、愛・豊川市八幡町上宿)俗称「天皇山」

豊川市船山

船山御陵(ふなやま ごりょう)は、1411年(応永18年)小松天皇37回忌・長慶院法皇3回忌に松良天皇が制定した小松天皇(実父)と長慶院法皇(養父)の二人の菩提陵で、松良天皇の隠棲地「萬松山大通寺の薬師堂」から見渡せる位置にあります。俗称「天皇山」「船山」。

この菩提陵は、船山古墳という古代古墳跡を利用して建立されたものであり、この船山古墳の後円の部分が上宿(うわじゅく)神社=天皇神社で、小松天皇と長慶院法皇の二基の墓石が残っています。

上宿(かみじゅく)はもともとは神宿(かみじゅく)ということです。

(6)天龍寺(てんりゅうじ、愛・豊川市平尾町中貝津45)

豊川市天龍寺

曹洞宗の寺院。京都市右京区嵯峨野にある臨済宗天龍寺派大本山(霊亀山天龍資聖禅寺)に因んで、この串呂線上に同名の「天龍寺」を建立したものと思われる。

測量技術もなかった南北朝時代に、このように的確な串呂地点に寺院を建立することが出来たことに驚いています。

京都市右京区の天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立した寺院として有名。

(7)本宮山(ほんぐうさん、愛・豊川市)

豊川市本宮山

新都「御津府」建設の神風串呂に、宮殿、宮城、宮家に通ずる「宮」という文字の入った名前の本宮山が串呂している点が神秘的です。

愛知県岡崎市・豊川市・新城市にまたがる三河山地の標高789mの山である[2]。一帯は大きな杉が生い茂っており、本宮山県立自然公園に指定されている。山頂近くには三河国一宮の砥鹿神社奥宮があり、東三河の人々の信仰の対象として親しまれている。(『ウィキペディア』本宮山

【参照】霊験あらたかな本宮奥宮の話(東三河の伝説・民話・昔話)


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