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「繋ぎたい人と繋ぎたくない人」怪獣歌会の往復書簡【1・2】

この文章は怪獣歌会の鳥居萌と川野芽生の間で交わされた往復書簡の第一回です。

最近短歌について困っていることがあるという鳥居に対して、「その話は興味がない」と言い出す川野。
はじめから波瀾万丈なこの書簡はどこへ向かっていくのでしょう……?

はじまりは2018年6月26日のこの会話でした。

torii [6:24 PM]
noteで往復書簡やろうよ
kawano [6:24 PM]
やる? いいよ。

こうして往復書簡はその日のうちに始まりました。

※この往復書簡は4往復でいったん区切りをつける予定です。このエントリでは、最初の1往復を公開しています。

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こんにちは、とりいです。往復書簡やりたいって言い出したはいいものの、これはウェブにも載せるんだよなと言う意識が邪魔をしています。まあ書いてたらいずれのびのびいけるだろうか。

最近は面白さについて考えてるし、考えたいと思っています。

面白さについての最近の仮説ですが、ある文脈に慣れた人の感じる面白さと、新しくそこにやってきた人の感じる面白さは違う。違うんだけど、そこを繋いでいく面白さというものもあるはずだと思ってる。

雑誌に載る短歌に慣れた人が、初心者が一人で上げてるインターネットの短歌を見たりすると、これ言ってることもありきたりだし表現も稚拙だしつまんなくね?と思うかもしれないし、初心者からすれば、“““““高尚”””””な短歌は何言ってるかわからんし、韻律の良さとか謎だし、カ行の音がたくさん入ってることの何がありがたいんだよ、もっと愛とか死とかの刺激的な話をしろよ、と思うかもしれない。で、ネットを見ててもなかなかその間を繋いでるものが見えない。(これは無知ゆえかもしれないけれど)同じ短歌をやってるつもりでも二人の考える面白さの間には断絶があるわけだ。

ネットの読者に向けて断っておくと、別にこれはどっちがいいとか上だとかの話ではなく、どうにかつながっていかないとどっちも先がなくね?という話をしています。

と、ここまで書いたけど、もしかしたら間にあるのは歌会なのかもしれないね。互いに読んで批評し合うことで表現を磨いていく。

まあ歌会に出会えた人とネットで発表し続けてる人とがいつまでも断絶しているわけにはいかない、私は100万PV取りたいし、こんなに楽しいことを隠しておくわけにもいかない(あらゆる文化に繁栄あれ!

歌会も文字に起こしたやつを読んだりして面白いかと言われると微妙で、推しの短歌が票を集めたりとか、自分も喋りたい、とか自分の歌が言及される緊張感が面白さの半分ぐらいな気がする。ネットで生放送でもやればいいのかな。それは楽しそうだね。

もっといろいろ書く予定だったけど、長くなりすぎると返すのも大変だし、また追い追い書いていければいいかなと思います。

川野さんはどうですか。自分の短歌の面白さをわからない人がいるとして、その人に説明してでもわかってほしいと思いますか?

2018/06/26 とりい

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お手紙ありがとう。
手紙を書くのは久しぶりです。以前は文通が趣味みたいなものでした。長い長い手紙を、便箋に手書きで認めていくと、随分時間がかかりました。一日の出来事を、何日もかけて書きました。出来事を、考えを、自分の中で噛み締めるようにして書く時間はとても大事なものだった一方で、自分が語りかけているはずの相手はいまこの言葉を聞いておらず、(長くなりすぎたり話題が古くなりすぎたりして出さないままになることもあったので)永遠に聞くことはないかもしれない、という状況は時々とても不思議なものに思えました。ほんとうに自分は相手に向かって書いているのか、そうではなくてこれはひとりごとなのではないか(相手が読むにせよ読まないにせよ、書き終えた時点で私の中では完了しているのではないか)と、ふとわからなくなったりしたのです。
これはネット経由でのやり取りだから、タイムラグがない分そういう気持ちにはなりにくいな、といったん思いかけたのだけど、タイムラグの有無(というか大小)は本質ではなくて、そういえば私は人と対面で話しているときも、話しながら、あるいは聞きながら、対話ってなんだろう、とよく思っているのでした。対話って可能なんでしょうか。相手が話して、私が話して、それはある程度呼応はしていても、どちらもひとりごとであるような気がする。
手紙を書くのは、自分で自分の思考を掘り下げるためで、そのために架空の対話相手が必要なのであって、ほんとうの宛名の人は存在してもしなくてもいいのではないか、手紙に限らず、すべてのやり取りというのはそうで、ほんとうの対話はすべて自分の中でだけ行われるのじゃないか、と思うのです。

それはさておいて。
いきなりぶった切るようで悪いんだけど、雑誌の短歌とインターネットの短歌の違い、という話、私は興味がないんだと思う。何も返答を思い付かないので、そういうときはたぶん興味がないときなんだろうな。
とりあえず最後の質問に答えると、特にわかってほしいとは思わない、です。
私の歌を面白いと思う人がそんなにたくさんいるとは思わないし、面白いと思ってもらうために歌を作っているわけではないからです。
そもそも、面白さがわかるって何だろうな。作者であっても自分の歌のすべてがわかるわけではないーーというか、どんな人であっても一首の歌のすべてを理解することはないと思います。ある歌を面白いと思う人たちが、みんな同じところを面白いと思っているわけではないだろうし、誤解に基づいた面白さというのもあるでしょう。
ある歌がわかること、その歌を面白いと思うこと、その歌のおもしろさが「わかる」こと、それは全部別の話ではないでしょうか。
でもそういえば、ほんたんで一緒にやっていた頃、君が全然私の歌をいいと言ってくれないことに対して、むう、と思っていたのでした。

興味がないときは興味が持てるように質問をします。
まず、君の言う「面白さ」って何ですか? 面白さというのは、私が使う評価軸とは違うところにある気がする。あるいはそうじゃないのかもしれない。少なくとも「面白さ」という言葉を主題にして何かを考えたことはあまりないので、君がどうして「面白さ」について考えているのかわからないし、知りたい。
もうひとつは、君はなぜ「繋ぎたい」と思うかです。先がないというのはどういうことなのか、とか、インターネットの短歌、雑誌の短歌という切り分けが適切なのか、とかも私にはわからないので聞いてみたいのだけど、それより詳しく聞かせてほしいのは君の動機の方。一昨日会ったとき、君は人と人とを引き合わせるのが好きで、だから三人以上いる席ではあとの二人が話をしていると安心して自分は話さなくてもいいように思っちゃう、という話をしましたね。そのこととは関係がありますか?
最近困っていることを書く、と言っていたのに、君が何に困っているのかいまいちわからないので、聞いてみました。

一昨日、二人は全然似てないね、と共通の知人に言われたけど、こうして書いてみるとたしかにそうだね。
君は何かと何かを繋ぐのが好きで、私は断絶とか繋ぐとか言われても(少なくともそれ単体では)あんまりぴんと来ないほう。
それがわかったところで、今回はいったん、筆を擱きます。

2018/06/27 川野芽生

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次回予告
早くも手紙中毒になってしまった二人。
寝る間も惜しんで書き綴るのは、わたしたちは一体何のために話をするのか、何のために手紙を書くのか、何のために創作をするのか、ということ――対話をめぐる長い対話が始まります。
次回「対話したすぎてロボを作った」


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