日本共産党の党名変更

共産党という党名はイメージ悪いから変えろてなことをおっしゃるひとたちがいる。それも共産党支持者が親切のつもりで言うのだから、困る。変えたって財界は、あのxx党ってのはほんとはキョーサントーと言ったんだ、と言いふらすに決まってる。しかもそうご提案の皆さんは、共産党が共産主義であることは認めているのだから、不当表示教唆だ。

ぼくは共産党に、共産主義とマルクス主義と革命を捨てると綱領で書いて、新しい党名にしてもらいたいと思う。

マルクス主義は19世紀の産物だ。今以て、弁証法的唯物論以外は観念論だと信じている。不破哲三さんの『マルクスと友達になろう』というブックレットは、そう書いている。日蓮宗の法華経かクリスチャンのバイブルみたいだ。

史的唯物論は今ではもはや歴史を説明するための常識となったので、マルクス主義者の専売ではない。創始者の功績は認めるが、それをふりかざすのは陳腐だ。マルクス経済学は経営者の強欲なもくろみを説明する。まったく正しいが、それも今では常識だ。剰余価値説も同様で、経営者のやっていることを丁寧に説明しているのは大事なことだし、それをミクロ経済、つまり私企業の観点だけでなくマクロの観点で、つまり社会全体の経済にとってどういう意味をもつか明らかにしているのは正しいが、マルクス主義者の独占ではもはやない。日本会議のようなイカレタ連中はともかく、人類の知的水準はそこまで向上してきたのだから、結構なことではないか。

科学的社会主義というのは、科学者を舐めている。科学者たちは日々新たな謎を見つけ出してくる。科学はつねに変わることに価値がある。マルクス主義は、確実なものが科学だと思っている。なるほど非科学的な迷信で社会や経済や人間を語ってはならないので、基本的な科学性はないがしろにできない。だが、マルクス主義の科学というのは19世紀の科学だ。『自然の弁証法』などと壮大なホラを吹いたエンゲルスはアマチュアだ。クロポトキンのほうがプロの科学者だった。彼はマルクス主義者が科学的を標榜するのを許さなかった。科学はつねに変わる。唯物論者は物質が確かだと思うらしいが、物理学者にとって物質の究極はつねに不可知なものではないか。だが、不破哲三さんをはじめマルクス主義者(共産党に限らず)は、物質が究極の基盤だとするから、存在の究極は知り得ないとする不可知論を観念論だなどと平気で言う。

革命は要らない。さまざまな制度と人間性との両面からの改善を積み重ねれば、結果として、これまでよりましな社会ができるのであれば、それで十分だ。それはまさに共産党が進めていることではないのか。(だが、終身雇用制を守れなどと言っているにはいたく失望する。終身雇用制は戦前から支配層が企んできた上流国民社畜化、下流国民窮乏化政策だ。竹中平蔵の罪は、欧米のようなセーフティネットを用意しないで、企業から従業員を放り出させたことだ。ほんとうに企業から自由な個人の労働者が生活していけることこそ目指されるべきだろう)。

共産主義は国家の廃絶だが、国家がなくていいほど人間がみんな原始キリスト教団か釈迦の弟子の修行団のように道徳的な人間ばかりになるなんて、ありうるとは思えない。ぼくは気持わるいからイヤだ。また、人間のコミュニケーションは決して完全ではないから、社会のあっちとこっちの間に誤解が生じ、それに起因する対立抗争がある程度起こることは不可避だ。適度に限定された地域の社会を調停する機関として、国家の役割はなくならない。これから必要なのは、米ロ中のような大国をなくし、各国をバラバラにして世界政府を樹立だ。日本も3つくらいに分けるべきだろう。
それでも、人間性の改善はこれからも進められる。コンプライアンスの声がしきりで、いまではセクハラは罪とされている。大いなる進歩が始まっている。共産党は自民党や公明党よりも、それに貢献することができるはずだ。

共産主義とマルクス主義と革命をやめろなどと言うと、反共と思われそうだが、上記でわかるように、ぼくは決して反共ではない。松下幸之助だの、連合のオバサンなんて、まったく願い下げだ。

共産主義も革命もマルクス主義も捨てたら共産党は共産党じゃなくなる? その通り。だが、それは無でもなければ、空っぽでもなく、今の日本共産党のいいものは全部残るだろう。

共産党のいいものとは、地域に根ざした、生活に困っている人たちに親身な援助をする活動だ。創価学会や幸福の科学もやっているが、ここでこそ共産党は自分たちが元祖だと胸を張ればいい。これがナンセンスですか?

それは、反動的で強欲なブルジョワと妥協なく対立することだ。そこに元共産党の、新興宗教とは一線を画した真骨頂がある。

国際社会福祉平和党でいい。

あるいは、共産とれいわ新選組を併せた「共和党」という党名にするといい。そういうと、米国の保守政党を思い浮かべて嫌がるひとが多いかもしれないが、共和制というのは本来、ヨーロッパで王侯貴族・カトリックの坊主の専横に対して立ち上がった民衆のための民主主義だった。共産党とれいわ新選組が合体した党にはまさにふさわしいではないか。

マルクス主義者は、宇宙の究極は物質だと言うが、ならば彼らも物質なのだろう。では、たんなる物質が、体制に逆らって投獄されたり死刑になったりするだろうか。そこにこそまさに精神がある。彼らはじつは心底は堅忍不抜の精神のひとたちなのだ。そのような精神性こそ、大いに讃えられるべきだ。撃ちてし止まんだのヤマト騙しなどという、空疎な、有害な精神主義ではない、ノーブルで真実な精神性。ぼくは、それを共産党とれいわ新選組に見る。宗教の信者のように、精神を精神と呼んだり、神だの仏と呼んで、神学などというケッタイなものを拵えたりしない(神は絶対の存在だというなら、人間がリクツでそれを説明するなんて変じゃないか)。不言実行の宗教性がそこにある。まことに正直で素朴でサッパリしている。それはまことに尊敬に値する。

その精神を精神と呼ばなくても堅持しているように、共産主義だのマルクス主義だのと言わなくても、共産主義者の精神は続く。




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