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フランスの浮世絵調“東京オリンピック2020”CMはなぜ日本で高評価を得ることができたのか(#43)

昨日フランスのテレビ局で制作された東京オリンピック2020のCMがニュースで取り上げられていました。
葛飾北斎の『富嶽三十六景』風の浮世絵調のアニメーションで様々な日本風な場所でオリンピックにまつわる競技を力士がするといったものです。

感覚的なものですが、確認した限り、オリンピック開催については反対でも、このCMについては好意的な反応の方が多い印象があります。
反対意見としては「大鳥居を高跳びするのは失礼だ」といった意見だったり、「なんでオリンピックと関係ない力士がメインなのだ?」といったものまでありました。
その意見にどうこうではなく、少し持ち帰って吟味するのも悪くないかなと感じ、振り返っています。
個人的にはスケートボードを瓦屋根の上で力士がやったら「天井に穴が開かないのか?」とか「傷つかないか?」といった意見から「建造物を傷つけそうなシーンは如何なものか?」といった意見が出ることを予想していましたが、私の把握する限り、見つかりませんでした。

なぜそのようなことが念頭にあったかというと、以前ヴァレンティノが日本市場向けに流したCMにその根拠があります。

ヴァレンティノのCMでは「着物が踏まれる」=冒涜というように解釈されていましたが、今回はそれがありませんでした。
推測するに以下の理由が考えられます。


①“スケートボード”というオリンピックとの分りやすい関係性がある。
②夜に隠れて活動する忍者に重ねることができた(既視感があった)。

特に②はかつての時代劇『江戸を斬る』のような屋根から屋根を渡るといったシーンなどでお馴染みで、「一度はやってみたい」、そんな躍動感すらあります。
※以前、頭巾を巡り、記事を作成したので下記へ添付します。

しかし、鳥居に関してはなぜ否定的な解釈ができたのでしょうか。
少し考えてみました。

たとえば、“凱旋門”を棒高跳びしたら、
たとえば、“天安門”を棒高跳びしたら、
たとえば、“東大赤門”を棒高跳びしたら、等々。

おそらく凱旋門と東大赤門は無礼にならず、天安門は無礼になるのではないでしょうか。
また誰がどのように飛ぶといった設定次第では凱旋門や東大赤門も無礼になるかもしれません。

対して鳥居は存在として凱旋門や東大赤門、天安門より抽象的です。

抽象度 鳥居 > 凱旋門 , 東大赤門 , 天安門

抽象度が高いと行為とモノにつり合いが取れています。
その場合、行為が大きく印象付けます。

ヴァレンチノのCMでは「着物を踏む」という行為が悪い印象を働いた好例です。

反対に具体度が高くなると、行為よりその場所で行う意味が印象付きます。

今回のCMは「○○の鳥居」を越えるのではなく、一般的な鳥居を越えているので行為が重要になります。
たとえば鳥居を体操のあん馬や鉄棒ように扱われていたら冒涜と捉えられたかもしれません。
鳥居にとって重要なのは鳥居の内側、つまり通過する部分(=参道)です。
その点でいえば、越えるという行為は冒涜から些か遠のく印象があります。
しかしながら、競技とは失敗と紙一重なのです。
それは陸上のハードルのように鳥居=障害物と捉えたなら冒涜といえるかもしれません。
ただ参道の中心は神が通るものですから、避けた(=神懸った好成績を残した)という競技者の成功への思いを隠喩しているとも解釈できそうです。

相撲は国技ですが、たとえばそれを柔道選手に置き換えたとき、「様々な競技を行うのにどうして柔道なの?」といったように偏りが生じかねません。

「忍者では駄目なの?」という意見もみつけましたが、多分駄目ではないでしょうか。
ウェットスーツを着た忍者が、画面上は同じでも陸上ではコンプレッションに置き換わっていると解釈すればいいかもしれませんが、「服」と「忍び」という立場上、相性がよくありません。
日本を代表し、かつ運動選手であり、裸が主体な点で力士が選ばれたのではないでしょうか。

そもそも自国の文化を異国の人に扱われることに目くじらを立てる人、幕末の攘夷派のような方々もいますが、事実として日本の文化とは“舶来の発展”がベースです。
もっと大らかであっていいのではと感じます。

フランスでの浮世絵といえばジャポニズムなので、個人的にはその影響って本当に大きいのだな、と妙に感心した次第です。

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