「真のつながり」って何だろう?

武漢ウイルス蔓延のために中止となった高校の同期会をZOOMで開催した。

怪我の功名とはこういうことだろう。オンライン開催なので、郷里での開催でも、東京や大阪での開催でも実現不可能であった、日本全国そして全世界から参加者が集まる盛大な同期会となった。

とりあえず語り合うのは、お互いの現況なのではあるが、頭の中の空間は明らかに40年以上前の郷里・校舎・教室である。

そして、誰がどこに住んでいたか、家族同士で付き合いがあるのは誰と誰で、誰と誰は親戚関係で・・・ということも、お互い頭の中で把握している。

こういう認識を共有できているからこそ、現実には参加者は個々の個室に一人でいて、小さな分割画面に収まった40年前とは頭髪も体形も様変わりした同窓生の映像を見ているだけでも、実際に同じ場所に集まるのとほぼ同様の交流が可能となっているのだろう。

さらに言えば、コンプライアンスの時代となった現代日本において、出身地や家族関係はSensitiveな個人情報であり、みな業務上は極めて慎重に対応しているが、この重圧感からも解放されているのである。

遠隔地にいる家族間でのオンライン連絡も同様であろう。一つ屋根の下で生活したという基礎があるからこそ、オンラインでの交流も可能となる。

コンプライアンスといえば、業務の場合はどうだろう。

業務連絡や指示・報告が、メール等のネットワーク手段を用いると極めて効率的であることは言うまでもない。

しかし、それは業務・職務に習熟し、タテ・ヨコの人間関係を把握していて初めて可能となるし、オンラインのみでは決して完全には実現しない。

今年の春就職した新入社員諸君が苦労されているであろうことは容易に想像できる。

こう考えると、血縁・地縁・友人関係など私的な関係であっても、業務などの公的な関係であっても、少なくとも現時点では、「真のつながり」「現実世界でのつながり」を欠いていては、オンラインメディアの効用を全く享受できないはずである。

とは言っても、「真のつながり」「現実世界でのつながり」は単に八方美人で社交的であれば良いというものではないのだろう。それでは皮相的に過ぎず、オンラインでのVirtualな交流と同じである。

Sherry TurkleのTED講演「つながっていても孤独?」を見ると、“「自分と向き合う能力」が必要だ”と言っている。


https://www.ted.com/talks/sherry_turkle_connected_but_alone?language=ja#t-35075

私はかつて鬱的心理状態に陥ったことがある。この状況は、言い換えれば「自分と向き合う能力」を失っていた状況なのだろう。

この時期は年賀状交換もせず、SNSにも一切参加していなかった。「自分と向き合う能力」を失って、Sherry Turkleの言う「ちょうどいい距離」がわからなくなっていたのだ、と今では分析できる。「孤独に耐える力や1人でいられる力」が失われていたから孤立してしまったのに違いない。

そして、鬱からの脱却の象徴がFaceBookのアカウント開設であった。「自分と向き合う能力」の回復までSNSでのつながりを行わなかったのは、最低限の分別が残っていたからなのか、或いは鬱とはそもそも「つながり」を断つ心理なのかはわからない。

ただ確実に言えることは、「自分と向き合う能力」がなければ「真のつながり」は生まれないということだ。

では、デジタルテクノロジーに基づくオンラインメディアは「自分と向き合う能力」を涵養するに足るのか否か?

私は、Sherry Turkleと同意見で悲観的ではない。

これまでに新たなメディアが出現してきた時と同様に、出現時点では全く想定できなかった発展がもたらされるのであろうと期待を失わない。

冒頭に挙げた全世界の友人たちが一堂に会する同窓会など、オンラインメディアがあってこそ実現した。そしてその結果、「真のつながり」を再認識することができたのだから。


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