Google Classroomから日本の不作為に思いが至る

自動車を運転しないこともあり、率先してマイナンバーカードを得ており、オンラインでの確定申告も経験済みであったので定額給付金の受給も当然オンライン申請すると意を決していたが、最終的には紙ベースの郵送申請することとした。

なぜなら、オンライン申請は典型的な“なんちゃってデジタル化”であって、オンライン申請すると地方公共団体の現場の方々に大変なご苦労を強いてしまうことがわかったからである。

責任は地公体現場にはない、中央の問題だ。

日経ビジネスのインタビュー記事で連合の神津里季生会長が、政府のデジタル化施策の遅れに伴う給付等の支援の遅延を批判している。

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00152/060800036/

しかし、納税者番号制度導入政策の嚆矢であったグリーンカード構想に対して強硬に反対したのが現在の連合傘下にある自治労や全逓であったことをお忘れなのだろうか?

さらには当時の官公労が支援した社会党の政治家も適温体制を維持したいばかりに自民党とともに反対したことをお忘れなのであろうか?

グリーンカード構想の段階で世界に先んじて導入されていれば、今般の混乱は発生していないはずである。現政府を批判するのであれば、まず当時の労組ナショナルセンターの不作為を認めて謝罪すべきである。

“あの時点での社会・政治状況を勘案、やむを得ない判断であった”と言うのであれば、批判の対象とする霞が関と同罪だ。

さらに言えば、“満州事変は止めようがなかった”、“真珠湾攻撃せざるを得なかった”と同じ論理だ。

今週の日経一面特集記事“検証コロナ 危うい統治”は、このような日本社会の不作為・先送り体質、そしてこれらに伴う逸失利益を検証している。

とりわけ6月10日付“デジタル化阻む既得権 変わりたくないDNA”に本質が凝縮されて説明されていると考える。

即ち、デジタルやシステムが問題なのではない。技術や手法がなんであれ、従来何も考えず“濡れ手に粟”だった方々が、考えて需要と収益機会を発掘する新規参入者を排除しているのである。

このことは、GoogleのClassroomというツールの機能を見て確信した。

Classroomには、日本人が「教育」(敢えて「」を付ける)において必須と考える機能がない。「多数の生徒に対してLIVEで講義を放映する機能」がないのである。

日本の教育専門家および専業者は、「物理的な教室に・定時に集合させて・授業時間、教師から一方的に情報を発信し、発信した情報の記憶水準を試験で確認する」を教育サービスであると考えている。(否定するかもしれないが、これが事実・実態である。)

しかし、これは教育であろうか?

Classroomの機能は単純である。
 教師から生徒に対して課題を与える。その対応を評価し指導する。
 生徒からの発信を全生徒に共有する。
 生徒間の発信への意見も共有する。
 生徒間の情報交流に教師が意見を加える。

これが本来の教育ではないだろうか?

こういうことを申し上げると、教育現場の方々から反論を賜るであろう。
そんなことが実現できる人的・物理的・金銭的資源はない
と・・・

しかし、そういうご意見をよいことに、現場の負担軽減と教育サービス向上とを先送りして、“濡れ手に粟”を維持したい方々がいらっしゃることを思い起こしても良いのではないだろうか?

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