【読書録】柄谷行人を読んでからデカルトを読むと印象が変わる
知っている人にはもう常識なのだろうが、そして前にも書いたが、柄谷行人はデカルト↔スピノザのあたりの哲学を重視している、ポストモダンだモダンだと論争があるけれども、結局のところこの時に生まれた構造から出ているものではない、こんな単純化した言い方は単純化が過ぎるというよりは間違っているのかもしれないが、そういうことを言っている。
デカルトは、独我論的な捉え方をしているとして、多くの哲学者に批判的に用いられることしかされてこなかった、今や「我思う……」を公理とする人もいないだろう、そうでなくて云々というところから哲学を始める人が多いが、そんなことはない。デカルトのしたかったことは、そういうことではなく、超越論的な位置に立つことはできないということを示したかったのであって……という運びだったと思う。
そして、その他いろいろな注釈を、デカルトに付するのだが、これがさすが日本の評論家の中でも一目置かれる存在である柄谷行人だ、と思えるくらい、適切である。
その人が取り上げたから人々が認知するというような、特権的な著者や本を紹介するのは、批評のやることではない、柄谷行人はそう言いたいように見える。今、たとえばルソーについて触れて、今あえてルソーを出してくるのは俺くらいのもので、こういう読み換えをするのだ、俺の論についてくればお前もこの世界に入れてやるし頭も良いということになるぜ、といったような人とは違う。夏目漱石について論じることで小説を論じ、デカルトを論じることによって哲学を論じる。これは、カントを扱うより難しいという気がする。文句なく定評が決まってしまっていて、それが実際には間違っていて、それが今の現実にまで綿々と繋がっていることを示せる、それこそが評論や批評という行為なんじゃないのか。そんなことを言っている気がする。
具体的なことは忘れてしまったが、柄谷行人の言葉を、デカルトについては何度も触れているから、その何度か読んだ経験によって、今実際に『方法序説』を読んだ際に、あの「我思う故に我あり」のフレーズは、普通一般に言われているものとか、あるいはそれらを自分なりに一度とっぱらったと思って読んだ時ともおそらく違ったであろう、新しい響きを得ていることに気が付いて、ああ、やっぱり柄谷行人も一世代では終わらないような一つの仕事をしたのだな、と大げさだけれども思った。
素朴な感想としては、デカルトはどうも懐疑病にかかった人のようだ、と、あれも真とされているが偽であるのではないか、あれは常識と言われているがそれは多数のものが肯定しているだけで根拠がない、少しでも疑わしい点があるとしたらそれを全くの偽として扱うだとかいった言葉を読むにつけ、思う。
だが、この辿り方、直接読んだわけではないが、見覚えがある。中世のさらに少し前にあたるのだろうか、アウグスティヌスである。アウグスティヌスが、確か、『告白』の中で、私に信仰があるとしたらそれはどこだろうか、身体だろうか、いや違う、視覚だろうか、それも違うはずだ、などと、どんどん身をそぎ落とすようにして、神という、アウグスティヌスにとっての真理に近づいているさまが、多少マイルドになって、デカルトの『方法序説』で紹介されている「方法」に生かされているのではないか、と感じた。実際はどうか知らない。
『方法序説』とは、文字通り方法(メソッド)についての説(ディスコース)であると、現代を読んでわかった。ここには、哲学というより、一つの方法があるのではないか、とまだ読んでいる途中の自分は予想を立てている。
もちろん、その方法というものが、そのまま哲学になり得る、ということがあり得るという可能性も踏まえながら。
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