【読書録】フーコー『精神疾患とパーソナリティ』3 あっけなく行われるフロイト精神分析の要約と乗り越え
フーコーの『精神疾患とパーソナリティ』を、さらに読み進めている。
フロイト理論の要約と問題点の指摘が、スピーディに、的確に行われていることに驚く、これは、やはり、前に一読した時には気づかなかった点である。
フロイトの、初期の、と言っていいのか、分析の仕組みは、精神の構造の発展史的記述、人は生まれてから何期と何期があって、そして、それが一番外の膜で覆われてはいるが、実は見えないだけで今までの変遷すべてが内包されているので、病的になった時には、それがむき出しになって表れてくるのだ、ということで、一言で言えば退行のことを指している。
しかし、このフロイト理論の前期の結論のようなものである、退行理論を、それだけでは不十分であると指摘するのが初期、初期以前のフーコーである。
退行で説明しきれないとする痛点が、パーソナリティである。
病的になることとほぼイコールなこととして、退行を挙げるとすると、人は偶発的に病む、発展史から少しでも転げ落ちてしまったら、人は理由もなく病的になるのか。どうも、病人を見ていると、そんな風ではない。彼らが抱いている、「象徴的宇宙」の統御感の喪失など、別の何か因果がなければ、そうはならないのではないか。
「象徴的宇宙」という単語を、この部分ではなかったかもしれないが、使っていた。ものすごいスピードで行われるフロイト理論の横断に際して、この語の響きの中に、若い頃に受けていたという、ラカンの講義を見た経験が、生きているのではないかなどと、勘ぐってしまう。
さらに自分の認識から個人的に言えば、退行する事って、それ自体が病的というよりは、何らかのささいな外力が働いていて、それが精神を犯しにかかるので、より強い原初的な力を発揮しなければいけないので、人間の殻の中心の方に近いものの力を発揮するのだ、むしろ人間の自己治療的側面なのではないか、という認識がある。
まあ、僕はフロイトにまず洗礼を受けたので、どちらかというとそういう視点で人の精神を見る癖みたいなものは、残っているのかもしれない。