【読書録】井筒俊彦全集(2)

 2とナンバリングしながら、実際に読んでいるのはいまだに井筒俊彦全集の一巻の最初の方である。書き方が難しい。
 しかも、今回は一発ネタではないけど、ほんとにふと思ったことで、大したことがない。でも今日は、それしか思わなかったから、それを書くことにする。
 全集中の、「ザマフシャリーの倫理観(一)」の最後の方で、こんな部分がある。

併し我々は、此の世に在る全てのものと同じく、人間の思想も時に著しく変化する事もあるものだと言う事実を忘れないようにしなければならない。ある一人の人の青年時代の思想と、壮年期の思想と、老年の思想とを一緒にして同一平面上に並べたのでは、首尾一貫した結論が出て来る筈がない。ザマフシャリーの場合にも、研究者の側にこう言う不備が無いか否かよく考えて見なければならないのである。

(『井筒俊彦全集 第一巻』、51ページ)

 今、久しぶりにこの引用機能を使って、今まで手作業で入力していた、引用の出典の部分が追加されていて、デザインのカッコよさに驚いてしまった。
 それは置いといて、この引用、こういうことを言う人は確かに多いが、井筒俊彦が言うと、どこか深みがある。
 ザマフシャリーというのは、アラビアの、十二世紀ごろに活躍した詩人らしい。その詩人を分析するのだが、この人は一体、イスラム教のどの派閥に属していたのか。あれか、これか、それともあれとこれの折衷的考えを持っていたのか、など。どれでもいいじゃん、詩の内容は変わらんのだから、と、つい日本に住んでいる我々は思ってしまう所だが、やはり、表現の中に絡みついている、イスラム教の重みというのが、我々には想像するしかないくらいの力で働いているらしい。いや、この詩自体が、イスラム教詩、と呼んでいいものだから、確かに当然かもしれない。
 その文脈から離れても、ついある作家のある時代にのみ着目して、それを作家の全体像であると考えてしまう癖は、単純化してしか現実に触れ得ず、それに気づくことすらできない人間というものに付きまとうのかもしれないが、それへの警鐘として十分に普遍的な響きを持っていると思えないか。
 僕は思うよ。

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