【読書録】ミシェル・レリス『成熟の年齢』3
最後にこの本から雰囲気が香るのは、ジョルジュ・バタイユだ。これは、今までのとは違ってちょっと先入見が入っているかもしれない。いわば前情報として、この本や『幻のアフリカ』を書いていた頃に、シュルレアリスト達の活動から離れて、バタイユと『ドキュマン』を製作していた、という事実を解説で知ったので、少しバイアスがかかったかもしれない。ところで、このシュルレアリストから離れて、別様のやり方で書くことをしていた、という運命、というと大げさだけどそういって差し支えないと思う、これを辿ったのは全く両者で共通だった。そのうえで、レリスにとっても、バタイユにとっても、『ドキュマン』という仕事は、どこか周りの著作から切り離されているような印象を受ける。もしかすると、それが芯を食った作品であるかどうかはわからないが、この二者の相互作用が最も働いた、いわばどちらの作品(活動)でもないようなものとして、さらに二人のその後の活動の深化を促したのが『ドキュマン』だったのではないか? と期待値が上がったので、次に読むものは『ドキュマン』や、それに関連する書物になるかもしれない。
『ドキュマン』の話ばかりしてしまったが、『成熟の年齢』の中に、どういう風に出ているかというと、自殺するものへの考察に、その作用が見られるような気がした。死にゆくものは、自分の死という、最終地点を直接見ることができない。なので、生きている自分自身は、自分の死を見ることができない、疑似的だとか、想像として通り過ぎることはできるけれども、といったことを言っていて、バタイユと立場がとても近いと感じた。
また、書くことと死を結びつける手つきも似ている。
書いていて、もっと深く両者を理解してからまた書き直そうと思った。まだ不正確に過ぎ、予想としての要素が多すぎる。