【1000字書評】水村美苗『母の遺産――新聞小説』貧困になっていく世の中で、お金と「私だけの部屋」を確保する難しさ
と、思わずドキっとする言葉がコピーとなっているのが、水村美苗『母の遺産――新聞小説』である。
この小説の主人公である美津紀は、父親の死に続いて母親の介護に直面し、自らの心に秘められていた母に対する愛憎と対峙する。いつまでも娘気分で好き勝手に生き、晩年は父を見捨てた母に対して、どうしても苦々しい思いを抱いてしまう。
しかも母の介護のただなかで、夫の哲夫の浮気が発覚する。
夫が浮気するのは今回がはじめてではないが、どうやら深入りしているらしく、相手の女に真剣に離婚を迫られているようだ…………
1000字書評
かつてヴァージニア・ウルフは、〈女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない〉と書いた。『母の遺産』は主人公である美津紀が、お金と「私だけの部屋」を手に入れる物語である。
物語の冒頭、美津紀は死んだ母の有料老人ホームの返金額を計算する。姉の奈津紀と分けても、3500万円は入ってくる。芸者上がりの祖母の庶子として生まれ、貧しい長屋で育った母が、どうしてこれだけの額を遺すことができたのか? おそらくその大半は先に死んだ父が稼いだものであろう。
ここからふたつの事実が浮かぶ。
①母が生きた昭和の時代、女が財産を手に入れる方法は結婚だった。
②昭和の時代は、大学を出て真面目に働いていれば、家や土地を買って資産を形成できた。
①については、籍を入れてもらえなかった祖母の暮らしぶりからも、結婚しなければ財産を確保できないことがわかる。平成になっても、金持ちのもとへ嫁いだ奈津紀や、離婚した友人の昌子が体現しているように、結婚が女にとっての生活保障であることは変わらない。
だが、財産とは無縁だった祖母はもちろん、結婚によって財産を手に入れた母も奈津紀も、美津紀のように真剣に金の計算をするわけではない。
美津紀が金を計算するのは、①を失いつつあるからだ。美津紀が金の計算をする姿は、母の死を契機に、自立して生きていこうとする決意を象徴している。
「芸術と知」に憧れ、分不相応なものを追い続けた母を美津紀は許すことができない。晩年の父を自分に押しつけ、つまらない男へ走った母の死すら願う。けれども、美津紀が自立できたのは「母の遺産」があったからこそであった。
ウルフは〈無名の女性たち〉の努力のおかげで、女性への不正が改善されつつあると語ったが、祖母、母といった〈無名の女性たち〉からの遺産によって、ようやく美津紀はお金と「私だけの部屋」を手に入れ、①を手放すことができた。
しかし、これは①と②がまだ有効だった時代の話である。時代が進み、②が崩壊するのに伴い、①も不確実になった。
この物語には、もうひとり金の計算をする女が登場する。美津紀の夫である哲夫を奪おうとする女だ。女の細かい計算は、失われつつある①と②に必死にしがみつこうとする姿のようにも見える。
ウルフは女たちに年収500ポンド稼ぐことと、自分自身でいることを説いた。それから百年近く経っても、まだ成し遂げられていないのかもしれない。
※引用文献:ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』 (平凡社 片山亜紀訳 2015年)
書評の補足 『母の遺産』が描く三世代の女
祖母、母、姉、そして主人公といった女たちが、過酷な運命にそれぞれのやり方で対処しながら生きていくさまが描かれていて、大河ドラマを観ているようなどっしりとした読みごたえのある物語だった。
祖母、母、姉はすべて男(夫)の庇護のもとで生きていたが、主人公の美津紀はようやく自らの脚で立って生きていくことを選択する。
といっても、母の遺産があったから可能だったわけで、タイトルにもなった「母の遺産」が象徴するものは大きい。
もうひとつタイトルに銘打たれている「新聞小説」は、この小説が2010年から2011年にかけて(東日本大震災を挟んで)新聞に連載されていたという事実にくわえ、新聞に連載されていた『金色夜叉』によって、祖母の人生が変わってしまったことが関係している。
さらに、この小説は『金色夜叉』のみならず、『ボヴァリー夫人』にも言及している。語学の非常勤講師と翻訳業を営んでいる美津紀のもとに、『ボヴァリー夫人』の新訳の話が舞いこんでくるのだ。
「新聞小説」という観点や、『金色夜叉』や『ボヴァリー夫人』とのつながりから、この物語を読み解くのもおもしろい。
書評講座の受講生の中には、『金色夜叉』と対比して、
という興味深い指摘をした人もいた。「夫か貧乏か」……切実な問いだ。
貧困は文学にどう作用するのか?
しかし書評にも記したように、いまの世の中では、「夫がいても貧乏」というケースも多いのではないだろうか。
「ひとりで貧乏」と「ふたりで貧乏」、どちらがマシなのかはわからない。
ふたりの方が貧乏も耐えられるのでは? という気もするが、一方、金がないことによってふたりの仲がこじれ、互いの憎しみをつのらせていく場合も少なくないように思える。
ここでまたウルフに戻ると、書評にも引用した『自分ひとりの部屋』で、
と疑問を呈している。
『母の遺産』は、高度成長期から平成の時代を生きた一家の物語であり、貧しい育ちの母も娘に相当の資産を遺すことができた。
経済成長が止まり、男も女も大多数の人間が貧乏になっていく令和の日本では、貧困は文学(フィクション)にどう作用するのか……?
(2023/01/17 2022/01/17付はてなブログ記事を加筆修正)
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