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トム・ロブ・スミス 『チャイルド44』(田口 俊樹 訳) 連続殺人事件を通じてソヴィエト連邦の不都合な真実を暴く

この社会に犯罪は存在しないという基盤を。

犯罪が存在しない国なんて存在するのだろうか?

かつてのソヴィエト連邦は、犯罪の存在しない国だった。
スターリン政権下では、犯罪は資本主義がひきおこすものだと考えられ、レイプや殺人といった凶悪犯罪が存在するなんて、とうていあってはならないことだった。

スターリン政権下のソ連を描いた『チャイルド44』の感想を記したのは、いまから2年前の2020年だが、今年になってニュースを見ていると、ウクライナの大飢饉からはじまるこの小説のさまざまな場面が、頭のなかに次々によみがえってきた。

『チャイルド44』とは?

2008年、イギリスの新人作家トム・ロブ・スミスのデビュー作として出版され、その年のCWA賞最優秀スパイ・冒険・スリラー賞を受賞した。
日本でも驚異のデビュー作として話題を呼び、すぐに翻訳出版されて、『このミステリーがすごい! 2009年版』海外編の第1位となった。
2015年には、リドリー・スコット監督によって映画化もされた。

それにしても、散々言われ尽くされているが、二十代の新人作家によって書かれたと考えると、まさに〝度肝を抜かれる〟デビュー作である。
冒頭にも書いたように、ソ連という強大な国家を描きつつも、その大きなテーマの下で、主人公の成長と、それに伴う妻との関係の変化を細やかに綴っているところもまた読みどころであり、上下巻あるにもかかわらず、退屈することなく、一気に読了できる。

あらすじ 1933年のウクライナから1953年のソ連へ

国家保安省捜査官の義務として――義務と言えば、人民すべての義務だが――レオはレーニンの著作を学習し、社会の不行跡である犯罪は貧困と欠乏がなくなれば消滅することを知っていた。

1933年、当時ソヴィエト連邦の支配下にあったウクライナは大飢饉に襲われていた。どの家の食糧も底をつき、家畜や木の根や草などもことごとく食べ尽くし、人々は瀕死の状態に陥っていた。 

そんなとき、パーヴェル少年は森で猫を見かける。生きている猫がまだ存在していたとはすぐには信じられず、幻ではないかと自分の目を疑う。
10歳にして一家の命運を背負ったパーヴェルは、猫を捕まえようと幼い弟アンドレイを連れて森へ入る。これで母さんも弟も生き長らえることができるのだ。ところが、不慮の事態が起きる…… 

物語の舞台は1953年のモスクワに移る。先の戦争の華々しい英雄として、前途有望な国家保安省捜査官となったレオは、幼い息子を亡くした部下フョードルの家へ向かっていた。フョードルを慰めるためではない。
なんということか、フョードルは息子が殺されたと考えているらしいのだ。 

殺人は資本主義の病だ。よって祖国ソヴィエトには、そんな犯罪など存在しない。それなのに、よりにもよって国家保安省に勤める者がそんな疑いを抱いているなんて、けっしてあってはならないことだ。
そこで、悲しみのあまりに度を失いつつあるフョードルを正しい道に戻すため、レオが動いたのだった。 

案の定、フョードルとフョードルの母親は、口の中に泥をつめこまれ、裸で発見された息子が列車に轢かれて死んだはずがないと主張する。
しかし、息子を連れていた怪しい男を見たと語った女が、国家保安省が出てきたことによって証言を翻したので、レオはフョードル一家の言い分を封じ込めることに成功する。国家の秩序が保たれたことに安堵した。 

だが、フョードル一家に手をわずらわされていたあいだに、監視していたスパイ容疑の男が逃亡する。部下を率いて捜索に出るが、副官ワシーリーがレオの言うことに従わず、捜索隊の足並みが揃わない。ワシーリーはレオの地位を奪おうとしていたが、あてが外れて暴走し、ついには残虐な行為におよぶ。ワシーリーは捜索隊の面前でレオに叱責される。 

そしてまたレオのもとに、新たに調査すべきスパイ容疑者の情報が届く。
その容疑者とは――レオの最愛の妻ライーサであった。 

ワシーリーの陰謀だろうか? レオはそう疑いつつ、ライーサを心の底から信じることができない自分に気づく。スパイ容疑をかけられたライーサとレオはモスクワを離れ、辺鄙な村へ追いやられる。

そこでレオは、口に泥をつめこまれてむごたらしく死んだ少女の話を聞く。以前、自分が葬り去ったフョードルの息子の事件を思い出す。
もしかしたら、自分はとんでもない過ちを犯したのだろうか……? 

ディストピアからの覚醒

この物語で描かれる「祖国」ことソヴィエト連邦の姿は、まるでディストピア小説の世界のようだ。 

殺人や貧困といった資本主義の病は存在しない。それらの存在を認めることは、前進している社会を大きく逆戻りさせてしまうことになる。
よって、連続殺人が起きていても、そのことを一切認めようとせずに葬り去る。もしくは、知的障碍者や同性愛者といった、ソヴィエト社会の一員ではない者、「共産主義や政治の埒外にいる人間」のせいにする。 

一方で、「政治犯」は存在する。いや、実際に存在するかどうかは問題ではない。「政治犯」と見做されてしまえば、存在することになるのだ。
「政治犯」とは、資本主義国と通じたスパイや、破壊活動を行う革命家だけを指しているわけではない。「ソヴィエトの権力を覆そうとしたり、打ち倒そうとしたり、弱めようとした者」すべてがあてはまり、体制に疑問を抱いただけでも、「政治犯」とレッテルを貼られかねない。
自らの保身や出世のため、平気で他人を陥れる者もいる。
噂と密告がはびこる、恐怖に支配された社会。

恐怖というものは必要悪だ。恐怖が革命を守っている側面を見落としてはならない。

ディストピア小説のようと書いたが、言うまでもなく、ソヴィエト連邦は実際に存在した国である。 

この小説も、ソヴィエト連邦で実際に起きた連続殺人事件をモチーフにしている。1978年から90年に渡り、アンドレイ・チカチーロという男が52人もの若い男女を凌辱し、殺害した事件だ。
ソヴィエト連邦では殺人は存在しないという信念があったため、これほどまでの長期間にわたり、殺人者が捕まることなく野放しにされていたのだ。 

さらに、冒頭のウクライナの大飢饉についても、当時のソヴィエト連邦は、五か年計画の成功を喧伝していたため、飢饉の存在を認めようとせず、他国からの援助を受け入れようともしなかった。
結果として、死者の数は数百万人から一千万人以上とも言われ、現在ではジェネサイド(大量虐殺)として考えられている。

連続殺人事件の舞台を1950年代に変え、ウクライナの大飢饉と結びつけたことによって、国家がかりでついた嘘と、その犠牲になった登場人物たちの運命がいっそう劇的なものになり、真実に目覚めたレオと、命の危険を冒してレオに協力する人々の姿が強く印象に残る。

また、この物語の舞台となった1953年は、スターリンの死によってソヴィエト連邦の終わりがはじまった象徴的な年でもある。

きみたちのことを一番愛しているのは誰ですか。正解――スターリン
きみたちは誰を一番愛していますか。正解――同上(誤答は記録される)

この小説でもっとも胸に刻まれるのは、レオの覚醒である。
優秀な官僚として、国家の欺瞞に薄々気づきながらも、深く考えようとせず目をつぶって国家に忠誠を誓っていたが、策略にはめられて、すべてを失ったとき、ひた隠しにされていた真実の存在にようやく目を向けるようになる。

国家に対する姿勢と同様に、最愛の妻ライーサとも心の底から通じ合えていないこと、相手の忠誠を完全には信じられないことに薄々気づきながらも、正面から対峙することなく目を背けていた。
しかし、ライーサにスパイ容疑がかけられたことをきっかけに、ライーサの本心、その真の姿を遅まきながらも見据えようとする。

レオはソヴィエト連邦という巨大な帝国のエリートであるが、この点については、現在の日本に生きるふつうのサラリーマンにも共感できる要素があるかもしれない。 

自分の仕事や会社に疑問を抱きつつも深く考えないようにし、妻や家族との意思疎通に困難が生じていても、正面から対峙することなく目を背ける人は少なくないのではないだろうか?  

不都合な真実、というのは、あらゆるところで使われがちな言葉であるけれど、真実から目を背けつづけていると、国家レベルにおいても、個人レベルにおいても、どこかでかならず破綻に見舞われる。
現在においても、ロシアはもちろん、日本でも、破綻が待ち受けているのではないだろうか? 回避することはできるのだろうか?
2022年、そんなことをあらためて考えさせられる小説だった。
(2022/11/17 2020/07/15付はてなブログ記事を加筆修正)

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