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ものをたくさん所持するということ

今年度で、ひとり暮らしを始めて9年目になる。早いもので、家電はそろそろ買い替え時期を迎える。幸いなことに、この夏わたしはふたり暮らしを始めることとなった。引っ越しは人生で2回経験している。大学に進学するときと、新社会人になるときだ。

引っ越し準備のため、新居に持っていくもの、メルカリなどで他人に譲るもの、今回を機に手放すものに、自分の持ち物を分けている。本当はトランクひとつでどこにでも行けるのが理想だが、現実は残念ながらそうではない。初回の引っ越しでさえ、当時はまだ服を全然持っていなかったが、一般的な家庭の車一台分が必要だった。2回目の引っ越しは持ち物が増え、多少整理したとはいえ、30箱の段ボールと、その他家電や家具と引っ越しをしたと記憶している。

我が家は代々所有物が多い。なかでもいちばん多いのは祖母だが、そんな彼女も、終活を機に持ち物を整理し始めたらしい。人は死んでしまったら、一切の所有権を強制的に放棄しなければならない。対照的に、祖父は所持品が少ない。少なくとも私が実家にいたとき、彼は一度も上質そうなバスローブを買い替えなかったし、車も同じものを長いこと乗っていた。車の寿命が来て、祖父自身も年齢を理由に運転することを諦め、そうしてようやく手放した。

話は自分の持ち物にかえるが、いつか着よう、いつか使おうの”いつか”は、きっといつまでも来ない。意識的に”それ”を生活に組み入れようと思ったが、着ない服を使ったコーディネートは、結局出かける直前に着慣れた服で組み替えてしまった。いっそメルカリに出してしまえと出品したところ、あっけなく売れた。たぶんこんな出来事も、一年もしたら忘れるのだ。そのぐらい、自分の認識の外にあるものは、自分の生活に不要だ。早く手放したほうがよい。

とは言いつつ、心理的に手放しづらいものがある。それは、母から譲り受けたものだ。例えば、わたしが幼いころに使っていたバスタオル(なんとまだ問題なく使えるきれいさだ)、母が揃えたハンガー、食器、収納ケース...…。自分が買ったものは、自分の責任でどうにでもできる。高かったけど、とか、すごくほしかったけど、とか、ヨーロッパ旅行のときに買った、とか、ストーリーはいろいろあっても、すべて自己完結できる。しかしここに”母”が絡んでくると、途端にそれが難しくなる。いちばんの心理的原因は、”後から何か言われるかもしれない”だ。わたしはときどき、母からもらった服を容赦なくメルカリで売りさばく。それは、彼女自身ももう着ないからわたしに託したのだし、託されたわたしももう着ないからだ。しかし母は、ときどき「そういえばあの服どうしたの?」「こないだ売っちゃったあれがどうのこうの」と言ってくるのだ。執着心がわたしとは桁違いな気さえする。

今回の引っ越しでいちばん困ったのは、バスタオルだ。我が家はタオルの所有枚数が異常なほど多いのだと、小学生の時に親戚の家に泊まった時初めて認識した。ひとり暮らしを始め、友人の家に行っても、やはり多いのだと実感した。たぶん、たくさんの枚数を回しているから、普通の家よりも一枚一枚が劣化するスピードが遅いのだろう。タオルの捨て時というものが、いまだによくわからない。今回は、よほどきれいなタオル以外は、思い切って処分することにした。ゆくゆくは、同じ種類のタオルで揃えたい。しかし、手持ちのタオル一枚一枚に、やっかいなことにストーリーがついているのだ。これはミスドの景品で手に入れてしばらく使わなかったもの、これは修学旅行などのよそ行きに使っていたもの、これは引き出物でもらった少しリッチなタオルであまり使わなかったもの...…。

ここまで書いて気付いたが、たくさんのものを所持しているわりに、我が家は(祖父以外)貧乏性なのだと気づいた。もったいないから、使わずに取っておく期間がある。それは、モノ自身にとっては空白の時間なのに。

本当に豊かな暮らしをしていたのは、気に入ったものを大事に使い、あまりものを所有せず、かといって変に執着しなかった祖父なのかもしれない。

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