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YOUは何しに北朝鮮へ #4 17歳の夏休み

 17歳の夏休みはぼくのもとにもやって来た。年齢と時間は誰にも平等だ。甲子園やインターハイにも縁がなく、かといって受験勉強に専念するわけでもなく、ともかく怠惰でなし崩し的におよそ青春とは縁遠い17歳の夏休みが始まろうとしていた。

 1994年7月9日土曜日。学校から帰るとニュース特番が流れていた。軍事評論家の江畑謙介が出ていた。湾岸戦争のニュースでお馴染だった顔。なぜ土曜日の昼間に江畑謙介?よく見ると金日成主席が亡くなったニュースが流れていた。
 金日成?北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国のトップか。へぇーとだけ呟いてぼくは予備校に行った。平壌放送は聴いていたが、ここに来てもまだ北朝鮮とは繋がらなかった。

 ところで、朝鮮学校に行くと生徒たちが使う教科書が展示されていることがある。彼らの日本語(彼らにとって国語とは朝鮮語である)の教科書を見るとぼくたちが学校で見た教科書と同じく日本の詩歌や小説が並ぶ。その非対称性に驚く。

 非対称性?つまり何かというと、彼らに比べぼくたちは朝鮮半島について学んでいないということだ。

 ぼくにとって日本史は数少ない点数の稼げる科目だったが、結局第二次世界大戦は終わらなかった。授業でそこにたどり着く前に受験本番が来た。つまり、戦後はなかったのだ。受験問題もそれを織り込み済みでぼくたちを迎えた。特段朝鮮半島についていうなら”出る”分野ではなかった。白村江の戦い。渡来人。倭寇。元寇。文禄・慶長の役。朝鮮通信使。日清戦争。韓国併合…。このあたりで受験本番を迎える。

 詰め込み式の授業をぼくは批判はしない。人生のある時期、詰め込む様に勉強することは必要だと思うが、詰め込んでも未だ追いつかないのが日本史。朝鮮、韓国人と歴史をめぐる論争になる時に現代史、特に戦後についてしっかり学んでいない足元の脆弱さを衝かれて戸惑うのだ。彼らは弱点を的確についてくる。沈黙するか。キレるか。心にもない謝罪をするか。多くの場合いきなり脛を打たれて立ち尽くすしかないのだ。

 17歳のぼくも同じだった。朝鮮半島に関しての特段の知識はなかった。夏休みになり図書館に行った。図書館でふと江畑謙介のことを思い出した。そういえば北朝鮮って言ってたな。北朝鮮に関する本を読んだ。

 それはまさにパンドラの箱だった。経済難にクーデターの可能性。核開発。戦争の危機。東アジアの不安定要素の塊が一気に噴き出してきた。毎日聴いていた平壌放送ってこの国の放送だったのか!とぼくは唸る。余りに呑気過ぎた。それはぼく自身だけではなく、日本全体に向けられた深い深いため息だった。

 こんな危ない国が横にあるのになぜ誰も関心を持たない?全ての回路がここで繋がり、北上の速度は加速度的に上がった。以来、北朝鮮、とニュースで流れると耳をそばだてた。いいニュースは聞かれなかった。いよいよまずい。

 新学期が始まる。同じ科の生徒がほぼ全員大学に進学する進学校にいたので、学校の空気は日に日に緊張を増していった。ぼくは別のベクトルで緊張していた。北朝鮮、北朝鮮。これはえらいこっちゃと。誰とも共有し得ぬ危機感を抱きひとり、教室から軌道を外れて行った。

 危機感を抱えたままぼくは受験本番に突入し卒業する。卒業式の直前2月25日に北朝鮮の呉振宇人民武力部長が亡くなった。金日成主席といっしょにパルチザンとして戦った朝鮮人民軍のトップだ。金正日時代がいよいよ本格的に始まる。いや始まらざるを得なくなった。忌々しい単色の街、ベットタウンを出て関東に住むことが決まっていた。ぼくは18歳になっていた。当時の北朝鮮の先行きとぼくの先行き。出帆への不安よりもともかく忌々しい学校と街から出て行くことだけをぼくは考えていた。

■ 北のHow to その27
 金日成主席の死去した1994年7月9日をどう迎えたか。この問いを在日コリアンの方にしてみると興味深い答えが返ってきます。真夏のグラウンドに立ち尽くしたことを話してくれる人もいれば、既に距離を取っていた人は何の感慨もないと言います。まさにひとそれぞれ。ひとつの時代の終わりをどう迎えたか。在日コリアンの人に親しくなるとぼくが必ずする質問です。

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