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アメリカの分断にみる差別感情の正しい扱い方

 こんにちは。プテゴリラといいます。
 普段は世界平和について、結構野心的な内容のマガジンをお届けしています。

 さて、以前、そのなかの記事のひとつで、人間の認知能力の拡大性と縮小性というものについて考えてみました。
 その記事がこちら↓

 補足記事がこちらとなります↓


 時間のない方のために図と概略だけ示すと、

認知の輪

・人間の脳は、世界へ向かって認知の輪を拡大させていこうとする欲求があ  
 る。
・その一方で、高カロリーを消費する脳は、コストを節約するため認知の輪
 を閉じようとする傾向がある。
・この認知の輪を拡大させようとする欲求(性善説)と、輪を閉じようとす
 る傾向(性悪説)のダイナミズムから人間存在をとらえていく

マズロー

また、これらの区分は、発達段階にあわせて、自己(生存欲求)、イエ(安全欲求)、小規模な共同体(社会的欲求)、大規模な共同体(自己承認欲求)、世界(自己実現欲求)へと拡大していくマズローの説と重なる


 という話です。詳しくは上記の過去記事を読んで頂けると嬉しいです。

 さて、補足記事の最後の方で、認知能力が発展的に成長していくうえで、「固着」と「退行」という問題が現代社会において大きな意味を持っていると述べましたが、今回はその話をしてみたいと思います。

非適応的な行動を生み出す「固着」

 まず固着とは何かというと、発達段階において、欲求段階が充足されなかった時、認知機能がその段階に停滞することを意味します。
 たとえば、安全欲求の充足が不十分な幼児は、幼稚園(社会的欲求の段階)に入っても、不安感が強く、他者との関係性に怯えるといった特徴が表れることがあります。
 社会的欲求が不成熟なまま青年期を迎えると、承認欲求を適切な方法で満たすことができず、やたらと他人の陰口を吹聴し、コミュニティへの帰属心の高さを示すことによって尊敬を得ようとします。(逆にいえば、過剰に承認欲求を求める人は、安全欲求や社会的欲求の段階における充足が不十分なことが多いのではないかと推測します)
 
 こういった非適応的な行動は、他者から遠ざけられたり、軽蔑を受けるなど、望ましくない結果としてフィードバックされ、ますます欲求の不充足を感じることとなるため、典型的な負のスパイラルに陥りやすく、抜け出しがたいものとなります。

差別問題から考える退行


 次に「退行」ですが、これは認知的な脅威に対して、拡大していた認知の輪を引き戻す作用を意味します。
 このことを少し詳しくみていくために、差別問題について考えてみましょう。

 ある日、私たちのコミュニティに、明らかに自分たちと異なる特徴を持った人物が参加してきたとします。すると私たちの脳は、認知機能を低次段階にある「安全欲求の段階」へと引き戻します。
 なぜなら、私たちと異なる特徴というのは、その人物が私たちとは異なる部族に帰属する人間である可能性を示しているからです。
 これは原始時代においては、決定的な危険要因でした。なぜならば、コミュニティに危険が迫れば、所属員はその悪影響からは逃れられませんが、その人物は自分の本来の部族に逃げ帰ることができるからです。
 そのため、他部族の人間は、我々のコミュニティにとって、攻撃者にも、フリーライダーにも容易になり得ることを示します。
 
 つまり脳が自分たちと異なる特徴を持った人間を認知した時に危険信号を発するのは、遺伝的な特性として、私たちの本能に刻み込まれているものだといえます。そして、上記の補足記事でも述べたように、敵対者を排除することはコミュニティへの帰属欲求を充足させるため、差別的感情はエコーチェンバー的に増幅されることとなります。

 もちろん、差別感情があることと、差別が正当化されるかどうかは、全くの別問題です。他部族の人間を全て排除していては、交易のような利益獲得チャンスを逃すことになりますし、文化的な刺激もなく、コミュニティの発展は停滞してしまいます。
 そのため私たちの脳は、条件反射的な認知の引き戻しを行った後、今度は理性による認知の再検証手続きを踏むことになります。

 まず私たちは他部族と思しき人物の観察を行います。
 重要なポイントとなるのは、武器を手にしていないか、浮かべている表情が加虐者のそれではないか、目が合った時に会釈など意思疎通のサインを示すか、などです。
 これらのチェックに合格し、その人物に当面の危険性がみられないと判断された時、「安全欲求」は充足し、認知の段階は「社会的欲求」へと移行します。

 次に、この段階におけるチェックポイントは、相手がフリーライダーかどうか、その兆候を発見することが主となります。
 当初は、言語などを用いた意思疎通が可能か、その際に基本的な価値観の共有を図れる相手か、私たちのコミュニティにとって不愉快な言動はないか、などの基本的な事項が見極められることになります。
 とはいえ、人間の脳はこれだけで相手を完全に信用することはありません。なぜなら、相手はこちらの意図を察して、善意の協力者を偽装しているかもしれないからです。
 そこで、人間の脳は、さらにじっくりと時間をかけて、観察を行うことになります。地域の祝祭などの共同行事にちゃんと参加するか、コミュニティの不文律を理解しそれに従うか、構成員のために利他的な行動ができるか、などなど。つまり長期間の協力行動という、高コストを支払わせることによって、偽装したフリーライダーを炙りだすわけです。
 ここまでクリアして初めて、私たちの脳は「社会的欲求」が満たされたと判断し、その人物を共同体構成員として認めることになります。つまり差別感情は解消されることとなります。
 いわゆる差別は誤解や偏見から生まれ、相互理解によって克服されるという意味がここにあります。

 もっとも、共同体意識が希薄な昨今の地域事情を考えれば、このようなプロセスが踏まれることは少なく、近所でそういった人をみかけても、大抵は話しかけたりはせずに終わる(つまり「安全欲求」の確認をした段階で終わる)のが現実かと思われます。だからといって、それで問題が起こることはほとんどありません。現代社会においては、私たちの共同体を健全に維持する役割を担うのは近代的な法制度であり、私刑のような原始的部族感情ではないためです。

無意識に抑圧された差別感情の逆襲が社会の分断を生む

 とはいえ、本能的な認知の引き戻しによって発生した差別感情は、理性による認知の再拡大によって解消されるのが本来的な流れであると筆者は考えます。しかし、ここで重要になるのは、差別感情は理性による抑制を受けたただけで、最初から「なかったこと」にはならないということです。

 最近、リベラル的言説において差別問題が語られる時、この差別感情が最初から存在してはいけないもの、あるいは発達段階の積み上げや相互理解のための時間といったプロセスを無視し、差別感情は既定的に解消できるのだとする主張があまりに多すぎるように感じます。

 19世紀末、心理学の創始者であるジークムント・フロイトは神経症のメカニズムを、無意識的な欲求が自我によって抑圧されることによって発生すると考えました。この学説そのものは最近の心理学界では疑問が呈されることも多いようですが、基本的な枠組みは今でも充分に有効だと考えます。(なお、お気づきの方もいらっしゃったと思いますが、筆者が用いた「固着」と「退行」という用語も、元々はフロイトの提唱した心理学理論からとっています。)

 差別感情を社会通念上あるべきでないと無理に抑圧することは、それらを「社会の無意識下領域」に押し込み、予期せぬ機会に、神経症症状として噴出させることとなります。
 社会現象を恣意的な文脈で一義的に解釈することは、筆者はあまり好もしくないと考えますが、それでもアメリカのトランプ現象とそれによる分断をその好例として解釈するのは、それなりに妥当性があると考えます。
 つまり、アメリカの分断とは、「差別はいけないもの」だとする社会規範(超自我)によって抑圧された、無意識の欲求が引き起こしたヒステリー(現代精神医学では解離性障害といわれるらしいです)症状といえるのではないでしょうか。

兄弟喧嘩だから終わらない

 ちなみにフロイトの理論によるとヒステリーは、その原因となった無意識の欲求を自我が意識化することによって解消する(ただし筆者はこの説はとらない)とされます。

 それでは、それを受け止める側のリベラルは、この欲求(ヘイトに代表される差別的言動)に対して、どのような反応をしているのでしょうか。

 彼らはヘイトを行う人々が、いかに野蛮で愚かしいことであるかを盛んに訴え、排除しようとしています。
 残念ながら、これは敵対グループを攻撃することでコミュニティへの帰属意識を高めるという、社会的欲求段階に典型的な行動です。
 つまり、リベラル対保守の分断というのは、リベラルが考えるように、文明対野蛮の戦いではなく、どちらも社会的欲求段階という同じ水準線上での争いだといえるでしょう。
 窓の内側にあるものだけが大事な保守と、窓の外にばかり目を向けているリベラル。どちらも自分の部屋に閉じこもっているという意味では変わりないといえるのです。

 かつて、20世紀の「自称文明人」たちは、自分たちの文明の外にある未開社会について「野蛮」なもの、「取るに足らないもの」とみなしていました。
 しかし、社会人類学者であったレヴィ=ストロースは、知的好奇心に突き動かされ、未開社会へのフィールドワークを行い、それらの社会に西洋文明とは異なる秩序があることを見出しました。
 また西郷隆盛の有名な文明論にこんなものがあります。

 私は西洋は野蛮だと思う。なぜなら、本当に西洋が文明国家ならば、未開の国に対し慈愛を本にし、懇々と説諭して開明に導くのに、そうはせずに未開蒙昧の国に対するほど、むごく残忍な事をして、自分たちの利益にしている
青空文庫「西郷隆盛 遺訓」より(筆者要約)


 筆者はこのレヴィ=ストロースのような「拡大していく認知の力」や、西郷隆盛の在り方こそが、本当の意味での文明的態度ではないかと考えます。

逆説的にアメリカの分断こそ平和の証明である

 しかしながら、こういった現代社会の状況を悲観すべきかといえば、筆者の考えは違います。
 人類の歴史において、その争いの多くは、生存欲求や安全欲求に端を発したものであり、対立点の性質上、その度に数多くの犠牲者が出るのが当然でした。
 それが、社会的欲求の段階において争うようになり、犠牲者もほとんど出ない時代になったというのは、逆説的に、いかに人類が進歩し、平和になったかの証明だといえるのではないでしょうか。

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