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食べることは生きること

食は生きること。

よく、「自分の身体は食べたものでできている。だから健康的にバランスの良い食事を摂りなさい。」という言葉を耳にする。食という行為は、生き物が持つ共通の習慣で、そして国や人種を超える。食は生きるために欠かせない行動であり、生きる根源なのだ。ただ、私にとって「食」とはまた異なる次元で「生きるための行為」だと強く思う。

家族との思い出を回想すると、それらのほとんどが「食」に纏わる思い出であるということに最近気がついた。旅行の最終日は決まって現地のスーパーに行ってその地方の食材や調味料を買い込んで、帰ってすぐに料理が始まった。そもそも旅行に行く醍醐味も「食べる」ことであった。食事を摂る場所を中心に全てのプランが組まれた。また、外出した後の家族の最初の挨拶は必ず毎回と言っていいほど「ご飯食べた?」「お腹すいた?」だった。何時に家に着こうと、ほぼ必ず熱々の料理が食卓にあった。祖母の家に着くと、座る間もなくキッチンに手招きされ、ありとあらゆる種類のおかずを味見させてもらった。「お腹いっぱいでももう少し頑張ってね」と言われるほど味見をさせてもらったこともあった。

毎年草木が少しずつ目を覚ます頃になるとと炭火を焚いてBBQが開催された。(そういえばBBQを家の中で試みて火災報知器が鳴って大惨事になったこともあった…。)太陽の日差しがジリジリと肌を焼く頃には、父と一緒に漬物をつけた。少しずつ葉が色を変える頃には、心地よい風の中再びBBQが開催された。人々が肩をすくめて歩く季節が来ると、大きなお鍋で鶏をまる一羽使ったスープが身体を芯から温めてくれた。

私の両親はよく「食育」という言葉を口にする。

「食育は、生きる上での基本であって、知育・徳育・体育の基礎となるものであり 、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実現することができる人間を育てることです。」      ー農林水産省HPより

健康に食べることは勿論、料理をすることや一家で食卓を囲むこと、それこそが教育になると、私の両親はよく話した。「全てのコミュニケーションは食から始まる。」とまで言っていた。その言葉通り、私は食卓やキッチンでよく喋る。自分の考えを話すときは決まってキッチンや食卓で、リビングでも両親の部屋でもなかった。

嬉しい時やお祝い事の時にはもちろん、悲しい時や辛くて苦しくて食事が喉を通らない時でさえも、私の家族は「食」を怠ることはない。私が大学受験の第一志望の大学から不合格をもらった時、家族は誰一人として結果を聞かずに、ただ私の好物を用意してくれた。悲しい時も辛い時も「とにかく食べなさい。」と言われて育った。そしてその言葉通り、私は一人暮らしをする今、社会人になって理不尽な理由で怒られたり失敗したりして食欲が湧かない時でさえ、とりあえずご飯を炊いてガスを点け、暗いキッチンをぼうっと照らす赤い炎よりも温度の高い青い炎を見つめ、目が覚めたかのように料理をする。疲れた時こそ料理をして、きちんと食べる。DNAに組み込まれたかのように。

そんな私という人間を形成する食に纏わる思い出の数々を、最近よくふとした時に突然思い出すようになった。料理をするようになってからのことだ。今まで記憶の片隅に追いやられていて、思い出すことのなかった思い出の数々がふと春の風が目の前を通るように脳裏によぎる。

先日おにぎりを握っていた時、夜中にやさしい灯がぽうっと照らすキッチンで父が翌朝のために握ってくれたおにぎりを思い出した。昔は海苔が先についていたが、べちゃべちゃして海苔の食感が愉しめないということで、いつからか海苔は別添えになった。母の作るおにぎりは、今にも崩れそうなほどにほわほわに握ってあって、そしてものすごく小さい。

またある日お弁当を初めて作った日には、両親が作ってくれたお弁当の味を思い出した。私は一度も給食を食べたことがない。つまり、幼稚園から高校まで、なんと15年もの間お弁当を作ってもらっていた。その頃は大してその凄まじい努力には気づいていなかったが、今思うと本当に頭が上がらない。大喧嘩した次の日でさえお弁当はきっちり用意されていて、お弁当を忘れた日にはなんと学校まで届けに来てくれた日もあった。いかに両親が「食」を重んじているかがわかる。

また別の日にカレーを作った際に思い出したのは、カレーライスをお弁当に持たせるための父の試行錯誤の数々だ。初めはタッパーに入っていたが、私がお弁当をぶんぶん振り回すせいか漏れてしまう。そこで父は、お弁当箱の中にご飯、カレールー、ご飯、カレールーとミルフィーユ式にカレーライスを入れる方法を編み出した。そして最終的には、温かいカレーライスを食べられるようにスープジャーにカレーをいれるという至って普通の方法に落ち着いた。

料理をするようになって思い出すことのできた私の食に纏わる思い出の数々は、私の心をやさしく温め、まるくし、いかに私が愛されて育ってきたかということに改めて気づかせてくれる。

私の知るありとあらゆる食べ物には、いつもいつだって思い出という調味料で味付けがされている。そしてそうした思い出の数々が、風邪の日に飲むスープのように私の心を癒してくれる。そうした思い出の数々が、私が生きる理由の大きな大きな一つになっている。

食は生きること。私は食べたものとそれらに纏わる思い出という味付けによって生かされている。今までも、きっとこれからも。

       


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