よるをたべる

遠くから、街の喧騒が聴こえる。

渋谷の煌めきが漏れだし、薄明光線のように暗闇を照らす。


私は、懐中電灯代わりのスマートフォンを掲げ、夜を歩いていた。


上京し、早三年。

なぜ東京に来たのか、と問われる事がある。

確かに、フリーターとして生計を立て、夢も希望もないヤツと思われても仕方ない。


でも私には、楽しみがある。


休日。真夜中。

夜勤をしている私にとって、夜は自由な世界。

他人に無駄な笑顔を振りまく事もせず、自分の世界に没頭出来る時間だ。


閑散とした住宅街を、ただ歩き彷徨うのだ。


日付の境目を踏む。涼しい風が頬を撫でる。

紺色のスニーカーが、夜空の下の濃紺のアスファルトを蹴る。


誰もいない静まり返った夜に、誰かの吐息の音が聞こえた。

人影が光に浮かび、男性だと理解した。


互いの存在に気付き、それでも無言ですれ違う。

彼は、何をしているのだろうか。

こんな真夜中、住宅街を歩く者など私くらいだろう。

そう思っていたが、恐らく違ったようだ。


私は堪らなくなって、声をかけた。

「…こんばんは。」

「こんばんは。」

何も会話は続かなかった。

しかし決してあきらめたくなかった。


巡り合えた奇跡を踏みにじりたくなかった。

彼とは、笑いあえるかも知れない。

心の底から、好きだと思えるかも知れない。


そして、彼とはもう二度と会えなくなってしまいそうだった。


「…散歩、されているんですか?」

ぼんやりとした彼の影に問いかけた。

影は私に近づき、姿を現した。


思った通り、男性だった。

年下、だろうか。

涼しい笑顔はどこか哀しげで、愁いを帯びていた。


薄い唇を動かし、彼は言った。


「そうです。貴女も?」

丁寧で、落ち着きのある声色は、年下とは思えなかった。寧ろ年上に思えた。


「はい。アルバイトのない夜は、こうして夜を彷徨っています。」

「そうですか。僕は紺と言います。」

紺、という名前は物静かな彼にぴったりだと思った。


「私は小夜と言います。」

「綺麗な名前ですね。」

「良い名前」でもなく、「可愛い名前」でもなく、「綺麗な名前」。

紺の綺麗な瞳からの輝きは、もっと綺麗だった。


他人に干渉されたくなくて始めた「夜散歩」。

なのに、紺とは一緒に夜を彷徨いたいと思った。


「あの。」

「はい?」

「その、迷惑だったり、嫌だったり、したら断って欲しいのですが、」

大きく夜の冷たい空気を吸う。


「これから、一緒に夜を散歩しませんか。」


暗闇でも分かるほど、満面の笑みで紺は笑った。


「いいですよ。」


これからの夜は、愉快なものになるだろう。

夜散歩の仲間と共に、よるをたべる。


数日後の夜。

紺は夜勤のある私に合わせて、数日に一回、夜散歩を始めた。


「紺さんは、なぜ夜散歩を?」

「…眠れないので。少し外の空気を吸おうと思ってです。」

私たちは、お互いに敬語を使う。

これから、夜を共にする仲間なのだから、多少馴れ馴れしくても良い気がするのだが。

「…紺さん。別に敬語じゃなくてもいいよ。それに、私の事も小夜でいいから。」

「…ありがとう。僕も紺で良いですよ。」

敬語とため口が混ざった言葉だったが、不自然ではなかった。


紺と私は、ほとんど言葉を交わさなかった。

聴こえるのは、二人の吐息の音と、渋谷の遠い喧騒だけ。


紺が、また「あのポーズ」をした。

唇に細い人差し指を当て、大きく息を吸う。

瞼を閉じ、耳を澄ませる。


神聖で、厳かな雰囲気を醸し出すそのポーズ。

私は、何らかの意義があるのだろう、と思った。


「…何、してるの。」

紺は、瞼と口だけ動かし、答えた。


「よるをたべているの。」


かなり意味深な回答が返ってきた。

私は興味を示し、更に質問をした。


「どういうこと。夜、美味しい?」

「美味しいよ。」

「何で、そんなことしてるの。」


「明日、夜を食べられるか分からないから。」


またもや、よく分からない曖昧な返事が返ってきた。


「どうして。」


紺は苦笑いをして、語り始めた。


「僕は、母親との二人暮らしなんだ。」

「…うん。」

それに問題があるようには思えなかった。


「お母さんは、夜に出かけて行くんだ。」

「私達と一緒だね。仕事?」


紺は少し微笑んで行った。

心からの笑顔だとは思えなかった。


「お母さんは、お酒を飲みに行く。そして朝に帰ってくるんだ。」

「…。」

「そして、また次の夜まで寝る。その繰り返し。」


夜、一人の時間帯に家を抜け出しているのか。


「前までは、そんなにひどくなかったんだけど。でも、連続飲酒が止まらなくなって、僕は大学を休みがちなんだ。」

「どうして…。」

「お母さんと、僕の生計を立てなければいけないし、倒れちゃったりしないか心配だし。家事もあるし。」


自分が大学生の頃は、毎日友人と笑い、家事などした事もなかった。


あの頃と同じ年で、未来にこんなにも悩まされているんだ。

ショックだった。けれど、その一言で片づけちゃいけない気がした。


私は、何もできないし、どうする事も出来ない。

無力な私が恨めしくなった。


「ごめんなさい。こんな暗い話を小夜にして。」

「ううん。話してくれて、嬉しい。ありがとう。」

そう言うことしか出来なかった。


強がって居るけれど、震えている紺の唇を私は見逃さなかった。


私は口角を少し上げ、笑った。

そして、紺の震える唇に、私の乾いた唇を当てた。

そのまま、時間が経った。

甘い、何処までも甘いキスだった。


唇から、乾いた感触が離れると、驚いたような、笑っているような顔をした紺が居た。


私は、後悔した。

突然キスをしてきた、会って数日の女。

怪しい。とてつもなく怪しい。


「…ありがとう。」


深夜の静寂に響く言葉は、意外なものだった。

感謝?


「…僕は、誰かに愛された事が無かった…。寂しい、孤独な…人だった…。」


紺は泣いていた。

涙の雫が月光に反射して、綺麗だった。


私も、泣いた。

理由なんてない。ただただ、大粒の涙を流した。


紺は、泣き腫らした目を、細めて笑った。

私も、笑った。


もう一度、キスをした。


紺の涙は、甘かった。

透明な涙は、どこまでも澄んでいた。


「いこうか。」

「うん。」

僕らは、これからも。

よるをたべる。


#眠れない夜に

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