癖と美学
俺は完璧主義的な傾向が強い
友人と会った後の動きや仕事を終わらせる順序など頭の中で組み立てるタイプ。何か突発的なトラブルが発生すると組み上げたジェンガが崩壊するようにやる気を失ってしまう。先日、鬱になりやすい性格のポストが流れてきた。ほぼ全てに該当していた。昔から本などを読んで改善しようとしているのだがなにせ性格的なものだ。そう簡単に直りはしない。直ったら直ったでこれまでの自分が否定されそうで何か嫌な気がする。面倒なこと極まりない
俺は自分が発信者となって大衆の目に触れるものに関しては"作品"と捉えている。noteやXがそうだ。
より多くの共感を得たいというよりは自分の"美学"が優先される。これはあくまでも自分の中にある基準が元になっている
例えばXだとポストする時間は偶数にしている。稀にタイミング悪く奇数になる場合もあるのだがそれは仕方ないとしている。物心ついた時からなぜか奇数に美しさを感じないのだ。割り切れないからだろうか?矛盾するようだが例外は存在する。11:11や5はセーフ判定なのだ。もはや無茶苦茶である
先日Xのおすすめを開くと左下に青丸がついてしまうのがどうにも気持ち悪いという話をある人にしたのだが、その人も同じ意見だったので驚いた。思わずテンションが上がり握手を求めてしまった
思えば温泉の下駄箱も決まった数字か偶数の場所を使っている気がする。病的な癖だ。これでも昔よりはマシになっているのだ。麻雀を覚えたことが原因かもしれない。123555789みたいな部品番号を目にした時、お!っとなることが増えた。今までの自分であれば末尾が奇数なことに不快感を覚えたに違いない。美しさを感じる世界が広がったのだと思う
このnoteを書いていて思った。文章を書く時も美学に基づいている。↑の文章を例にすると"美学"で改行されているのだが、これが"美学に基"で改行されるのがどうしても許せない。これはその日の気分によるのと削れる文章や接続詞、別の言い回しがキャパにない時のみ仕方ないとしている。日本語がおかしいことがたまにあるのはそれが原因である
シンメトリー(左右対称)にも美しさを感じる
キューブリック作品はそれが多いから好きなんだと思う。自然的な美しさもあれば計算された人工的な美しさもある。自然的な美しさに重きを置く人だとそれは偽物と捉え、美しさを感じないのだろうか?
エアコンの室外機にも美しさを感じる
汚ければ汚いほど哀愁が漂っている気がする。これは快適な室内で主役になっている室内機が一般的に感謝されるのに対して、暑い日も寒い日も人知れず頑張っている室外機に俺がシンパシーを感じているだけなので少しズレていると思う
俺は他にも極度に忘れ物がないか確認する癖と車に乗せて貰う時は必要以上に言葉を選ぶ癖があるが、それはトラウマ由来のものだ
何か物を忘れて困ったり時間を無駄にした経験からそれを未然に防ごうとしている。あの血の気が引く感覚が大嫌いだ。疲れていると、"確認したことすら忘れてしまう"ため何度も繰り返す。他人から見たらただのヤバい奴だ。家の鍵をかけた後3〜4回はドアを引っ張り本当に閉まっているか確認する。車の鍵をかけた後も同じだ。部屋を出る時は本当に忘れ物がないか何度も振り返ってしまう。仕事が終わって駐車場に向かう時は頭の中で漏れがないかしつこいぐらい確認してしまう
過去、俺の発言で運転者を怒らせてしまい置き去りにされた経験がある。冷静に考えるとその運転者がヤバい奴なのは間違いないのだがそのトラウマから言葉を選ぶようになった。どんなに仲がいい人でも置き去りにされる可能性が捨て切れない。ゼロではない。俺はやられる側の気持ちを知っているので、どんなにムカついてもそんなことは絶対にしない
ここまで書いてきたが結局のところ何が言いたいかよくわからなくなった。正直そうなることが多い。会話をしていても話が脱線したり派生したりで結論がまとまらなくなる
大学時代あるレポートで肯定側の立場としてずっと書き進めていたが、終盤になって実は否定派だったということに気づき最初から書き直す羽目になった
これは悪い癖なので直したいと思う
(強引に結びつけて終了)
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