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家族への憧れ

最近、家族について考えることがよくある。

家族に関するコンテンツを無意識に摂取している。

SPY×FAMILYや100カメの「”家族”シェアハウス」回、「恋せぬふたり」、そして何度も観ているかわからない「大豆田とわ子と三人の元夫」などなど。(どれも本当に良かった)

そう言っている私であるが、ここまでの人生で(まだ20年といったところだが)恋愛は自分には必要ないのかもしれないと感じるようになったし、このことを別にネガティブに捉えているわけでもない。

恋愛をすると、精神的に不安定になって、幸せと感じられることが一人でいる時よりも少ないような感じがしているから向いてないのかなあと思う。

今のところ20代での結婚は考えていない。30歳くらいを過ぎたあたりで、ご縁のある人がいれば結婚してみてもいいかなあとか。そのぐらい、そこら辺の人生設計はぼんやりしている。

でも、漠然と「家族っていいなあ」と思うことがよくある。

心がぽかぽかする、誰かと今日会ったことを話せる、そんな自分の居場所というものは強く望んでいるのかもしれない。

美味しいご飯食べながら好きな人とくだらない話してる時が最高なのだ。自分のなかでそれは不変の真理としてある。だからこそ家族への憧れがある。

どんなかたちの家族でもいい。血が繋がっていなくても、別々に暮らしていても、自分たちが「私たちは家族です!」と言えば、もうそれは家族なのだ。

話は変わるが、大学2年の時に日本国憲法の講義を受講していた。講義課題としてこのようなことが問われた。

選択的夫婦別姓制に関する訴訟の「判決の要旨」をよく読み、論点を明らかにして、それに対する自分自身の意見を400字以内で説明してください。


夫婦別姓とは、結婚をした後も夫と妻が姓を変えずに結婚前の苗字を名乗ることである。 「選択的夫婦別氏制」とは、あくまでも”選択的”なのですべての夫婦が別姓にする必要はない。そのため従来通り、同じ姓を名乗りたいのであれば同じ苗字にすることも可能であるという制度だ。

しかし、日本ではこの制度が認められていない。

そのことに関して訴訟が起こったが、「選択的夫婦別氏制」を認めないことは憲法には違反しないという判決であった。

私は講義課題の問いに次のように答えた。

判決の要旨では、「家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位であるから、呼称の一部である氏をその個人の集団を想起させるものとして一つに定められることに合理性があるといえる」ということであったが、このことに合理性があるかどうかというところが論点であると捉えた。私は、合理性がないと捉え、選択的夫婦別姓の導入に賛成の立場をとる。理由は2つある。1つ目は、男女平等が背景となり、女性が夫の名字を名乗ることで仕事上の不利益が避けられないからだ。2つ目は、「氏を一つに定めることで家族という集団を想起させる」という判決の要旨であるが、逆に「氏が一つでないと家族という集団を想起できない」とは言い難いからである。家族の姓が異なるという理由で、家族の集団としての一体感や絆の深さには変わりないと考える。これらの理由から、家族の呼称を一つにすることには合理性がなく、選択的夫婦別姓を導入するべきであると考える。

特に2つ目の理由については強く主張したい。

名字が異なるもの同士は一緒に暮らしていても家族ではないのか?そのようなことはないと思う。様々な理由があって別の名字のまま暮らしているだけなのに、合理性を観点に家族を想起できないとは、、判決の要旨にも個人的には納得がいかないし、この選択的夫婦別姓についてはまだまだ議論が必要であり、私たちも考えていかなければいけないと思う。

女性は結婚して出産、男性はバリバリ稼いで妻と子を養う、という生き方が私たちの祖父母の時代では当たり前だった。

だから、私の祖母は私に強く結婚や出産を勧めてくる。めっちゃキツい。

今、時代が変わりつつあって家族の在り方についても様々な考えが出てくるようになってきた。

でも逆に言うと生き方が多様化してきたから、自分なりに自分の生き方を模索しなければならないのも、この時代ならではの大変さなのかな、とも思う。

これから、もっともっと時代が変化していくだろうから自分の脳もアップデートしていかなきゃ。死ぬまで学び続けたいな。

今日は結構長くなってしまいました笑

ここまで読んでいただきありがとうございました。それでは。

*選択的夫婦別姓について強めに主張しましたが、このことは本当に様々な意見があると思います。あくまでも一個人としての意見として捉えていただけるとありがたいです。



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