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よだかの星~いじめられっ子のバイブル

小学校の頃いじめられっ子だった私は休み時間になると図書室に隠れていた。休み時間には、いじめっ子は私を殴りプロレス技をかける練習をしていたのだ。
本には興味無かったが教師が朗読してくれたよだかの星は覚えていた。
手持ち無沙汰だったこともあり「よだかの星」を読んだ。
醜く、誰からも嫌われ、嫌がらせを受けるよだかはまさに自分のことだと思った。

よだかは鷹の仲間なのに醜く、嫌われ者だった。鷹が彼の元にやって来ておまえが仲間と思われたくないから名前を変えろと言う。どんな名前かと言うと市蔵という名に変えろと。

<この会話は時代を感じさせられる。落語みないなべらんめい調。
よりによって市蔵とは。歌舞伎役者じゃあるまいし。>


よだかはそうしないと殺すと脅迫されるのである。

首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。

宮沢賢治「よだかの星」より

凄まじいパワハラである。

このように罪なき者が苦しむ姿を描いた物語で有名なのが旧約聖書の「ヨブ記」である。ヨブ記はある意味壮大ないじめの物語である。

いじめを行うのは創造主である神様で、いじめに会うのは善良なヨブと言う男。いじめっ子の神にとことんいじめられたある男の話しである。


そもそも何故ヨブはいじめにに会うかと言うと、ある時神様はヨブを示してこんなに敬虔な者はいないと悪魔に言う。悪魔はそれは彼は財産や家族、健康にも恵まれ幸せだからであって不幸になれば信仰を失うに違いないと反論する。

そこで神様は試してみようと言う。ヨブは神様と悪魔との賭けの対象になった。神様公認のもと悪魔は悪行の限りをヨブに行う。大体いじめのグループではリーダーは自分の手は汚さない。手下にやらせたりする。
ヨブは財産を失い、子ども達も殺され、挙げ句の果てに病気で七転八倒する。しかしヨブはどんなにしいたげられても信仰を失わない。意地を貫き通す。


結果的にこの理不尽な物語はヨブが神に許しを乞い、許されて終わるのだが、その理不尽さは残る。神の不在を示すたとえとしてよくあげられる。世の中は理不尽だということである。この物語をユングが面白く分析している。興味のある方はこちらをどうぞ。

ところで、いじめられたよだかはどうなったか。

よだかは鷹に脅され、空に逃げる。兄弟であるカワセミに別れを告げたものの、死にきれず太陽や星々に助けを求める。

しかし誰も助けてはくれない。
彼はやけくそになって羽ばたき、ただ宇宙に向かっていくのだ。そしていつの間にか自分が蒼い炎に包まれ星になったことに気がつく。


ここに西洋と東洋の大きな違いがある。ヨブは常に人間であり、それ以上の存在にはなれない。キリスト教ではヒトはどうやっても神にはなれないが、仏教では修行すれば仏になれる可能性はあるのだ。

よだかは星になったのである。自らの力で、結局誰の手も借りずに。

 醜く、誰からも嫌われ、嫌がらせを受けても、やけくそになって宇宙に向かっていけば、いつかは星になれるかもしれない。ただただ目標に向かってやけくそになって行けば何かを成すことはできるかもしれない。
まさにいじめられっ子のバイブルだと思う次第である。

帰校時間になるといじめっ子たちは校舎の出口で待ち構えていた。
嫌がらせをし、投げた石が目にあたったこともあった。
泣きながら道端でうずくまった。しかし誰も優しい言葉をかけてはくれなかった。

帰宅すると両親は喧嘩をしており、母親はこうなったのはお前のせいだと私を叩いた。
小さな妹だけが私の生き甲斐で唯一の理解者だった。
妹に物語を聞かせる為に、兄らしくするために様々な本を読み始めた。

そのうちに本はもう一つの生き甲斐になっていった。

一人でも本が孤独を癒やし生きる術を与えてくれた。
この本は自分にそのきっかけを与えてくれた思い出深い本でもある。



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