天才の兄、凡人の私

「お兄ちゃんとは違って、いっつもコツコツ頑張って、偉いね」

これは私にとって、褒め言葉ではなかった。


私には歳の近い兄がいる。兄は幼少期から頭がよく、両親や親戚から「天才だ」と言われていた。(今も彼は頭がいい。)それに対し、幼少期の私は頭がよさそうなそぶりがなく、セーラームーンになることを夢見る、頭を使うより体を動かす方が好きな普通の女の子だった。

兄は自然と勉強するようになり、実際その結果もよかった。というか、良すぎていた。両親は、頭のいい「天才」な兄を、どう導いたら良いのか分からないくらいに。

私は兄に対抗心を燃やして、「わたしだって、頭いいもん!」と言わんばかりに、小学校に入って勉強した。兄ほど地頭はよくなかったものの、勉強の成果があらわれ、テストでは兄と同じような成績をとった。

そのテスト結果を見せて、毎度言われていたのが、「○○はコツコツ努力して、偉いね」という言葉だった。

ちがうちがう、そんな言葉が欲しいんじゃない。ただ、

「○○も頭がいいね」

と褒めてほしかった。


努力を褒めてほしいんじゃない。ただ、私も兄と同じポテンシャルがあると、(天才ではなくとも)地頭がいいんだねって、認められたかった。

兄と私が同じ成績であっても、兄は「天才だ」と褒められ、私は「努力家だ」と褒められる。つまり、両親にとって、私は天才ではなく、努力して天才と同じ成績をとっている「凡人」なのだ。

「○○はコツコツ努力して、偉いね」という言葉には、「○○は努力して天才の兄と同じ成績をとれる、努力家の凡人だ」という認識が含まれていると感じていた。だから、納得いかなかった。

確かに私は凡人である。天才ではない。ただ、天才の兄を持てば、それよりも少し劣ってしまった妹は、凡人として認識される。凡人の私は、どんなに陰ながら努力して兄に近づいても、天才にはなれないのだ。

天才の兄、凡人の妹。このコンプレックスに、私は一生苦しむのだろう。

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