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【感想】高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」

前から気になりつつも読んでいなかったのだけど、今日買ってきてそのまま一気読みしてしまった。
高瀬隼子先生の本は2冊目で、最初に読んだのは「犬のかたちをしているもの」なんだけど、こちらより好みかもしれない。
わたしはめちゃくちゃ面白かった。
もっと高瀬先生の本を読みたいです。他のも買って読もう。

この記事はネタバレを含みますので、これから読みたいという方は前のページに戻ってくださいね。

さて、色々話したいことはあるけど、まず職場の芦川さん推しの雰囲気があまりに奇妙すぎる。あまりに不気味。こんなことあります?というのが正直な感想。
わたしは新卒で入社した会社にずっと勤めていて、他の職場の雰囲気を知らないのだけど、うちの会社だったら頻繁に休んだら絶対誰かには陰口叩かれる。誰か一人を守ってあげようという雰囲気にはならない。手作りお菓子もアウト。それを頻繁に持ってくることもアウト。誰一人として裏で文句を言わなかったり、「いつも持ってきてくれて申し訳ないから」とお金を渡すなんてことは絶対にあり得ないだろう。
本当にみんな喜んでんの?なぜみんなそこまで芦川さんを大切にする?と思うのだけど、これは二谷が言っている通り、「生贄」だなあというのがわたしの正直な感想。

だって、芦川さんが今のキャラクターから変わってしまった途端に、「芦川推し」の雰囲気は一気に崩れるはずだから。みんな人が変わったように態度を変えると思う。
でもきっと芦川さんはキャラ変などしない。あれが「芦川さん」だから。
自分が職場の人間はおろか弟や飼い犬にまで舐められていることを、本人が気づいているかどうかはわからないけれど、確信犯なんだとしたらプライドを捨てられるその潔さに天晴れだし、まったくのド天然なんだとしたらその鈍感さにやっぱり天晴れだ。
セクハラに対して嫌だと言ったり、周りに自己主張するようになってしまった途端に、皆態度が180度変わると思う。
藤さん、原田さんは、いくら弱々しくても迷惑をかけられても、「そんな可哀想な芦川さんを助けてあげる自分」を出現させてくれ、ヒーロー/いい人気分にしてくれる芦川さんが好きなのだ。

だから、「誰かにいじめられる、可哀想な弱者の芦川さん」は彼らにとって都合がいい。
芦川さんの作った手作りお菓子を潰さずにゴミ箱に捨てていたのは、おそらく藤さんか原田さんのどちらかでしょうか。
彼らは押尾が芦川さんをよく思っていないことも知っている。
ある意味、芦川さんが頻繁にお菓子を作って持ってくることになった状況は好都合だ。なぜなら押尾がこれをよく思わないことは確実で、これを利用して彼女を唆さない手はないからだ。
押尾はその手に乗ってしまった。いや、あえて乗ったような気さえする。結果として乗ってよかったと思う。
彼らは、「いじめられる芦川さんを守る自分」になりたい。いいことをしている気分になれて気持ちがいいし、距離感を間違えているかもしれない(彼らに自覚はないんだろうが)振る舞いにもNOと言わず受け入れ、感謝までしてもらえる。芦川さんと過ごしていると、そういう承認欲求が満たされる。悲しきかな、彼女はあの職場ではそういうマスコットとして必要とされている。

二谷もそう。
いや、藤さんや原田さんとはまた別のところで芦川さんの存在によって満たされている欲求がある。
彼は芦川さんを尊敬こそしていないが、そういう、どこか頼りなくて自己主張の少ない控えめな女性が元々好きだ。彼は今までも、あえて尊敬できない女性をパートナーに選んでいると思う。
でもそれが彼の性癖で、そういうところにこそ色気を感じる。
本音では芦川さんの手作り料理が嫌でも、そのストレスを埋め合わせるかのようにお腹がすいていなくてもカップ麺をかき込んでしまうことも、彼が彼女と一緒にいない理由にはならない。
ある意味、自分が本当に何を欲しているのかを理解している。
だって、皆とは言わないけど、恋人に直してほしいことを言葉にすることは何ら不思議じゃない。芦川さんを女性として素敵だと思っていても、内心は彼女の手料理を嫌がっているし、彼女の手作りごはん志向にも苛立ちを覚えている。だったらそれを言えばいいのに、彼は絶対に言わない。
将来を共にするかもしれない間柄でも、嫌なことは嫌と言ってお互いに心地よくいられる環境を模索したい、作り上げたい、ではないのだ。
二谷は、芦川さんの何気ない言動や行動で自分が否定された気持ちになる。
それでも、そういうこと言わないで、自分はこうしたい、とは主張しない。
自分の欲を完璧に満たしてくれるたった一人の人なんて、誰にとっても存在しないけど、わたしは一緒にいる人に、自分が自分でいいと感じられるような居心地のよさを求めてしまうから。二谷はそうじゃないんだなあ、って思った。
嫌なことはそのままに、裏では彼女が知ったら傷つくかもしれないこともしつつも、それでも芦川さんは二谷にとって「容赦なくかわいい」ことには変わりない。
裏では芦川さんが傷つきかねないことを結構やっている上、それに対して罪悪感を感じている描写がまったくないので、彼をサイコパスと称するのもわからなくない。でも、サイコパスじゃないと思う。

「おいしいごはんが食べられますように」の意味は、誰にも自分の在り方を否定されずにただただ自分らしく生きられますように、という祈りだと思う。
おいしいものを食べた時に、黙って噛み締めるのではなく、おいしー!と言わなくてはいけないのが嫌だと言っていた押尾。
「二谷さんと食べるごはんは、おいしい。」
二谷と押尾ってそういう感覚的なところは近いと思うんだけど、でも二谷はそういう感覚を合わせていく以上に「恋人」に求める役割があって、きっとそれを満たす人じゃないと付き合わないし、いずれ「した方がいいのかも」と思っている結婚も「そういう人」としかしないんだろう。芦川さんはそれに適合している。

SNSにあがっている感想を読んでいく中で、「二谷はなんでそんなにモテるの?」というものを何度か見かけた。
わたしの意見としては、二谷って、そんなにモテていますかね?
「みんなのアイドル」芦川さんと付き合いながら、押尾からも飲みに誘われ、家に行きたいと言われるから?
芦川さんに対して同じことを感じているであろう同志としては好きだろうが、そこに恋愛感情やそれにまつわる嫉妬心なども一切感じなかった。
押尾は二谷のことを「セックスできる男」として括ってると思うけど、 「できる」と「したい」にはかなりの差がある。

高瀬隼子先生の物語は、押し付けがましさや説教じみた雰囲気はないのに、読んでいると「多様性」という今や流行りのようなフレーズを思い出す。

多様性って、何もLGBTQに該当する人のセクシャリティを理解するとかパワハラしないとかじゃなく、本当はただシンプルに、実はみんなそれぞれ全然違うんだよ、ってことを受け入れることなのかもしれない。
理解する必要はない。ただ違うということを受け入れる。

なぜわたしたちが物事や人々をグループに括るかって、その方が楽だからだ。
わたしは長年恋人がいないけど、滅多に恋愛感情を抱かないという点を知った人に「じゃああなたはアセクシャルなのかもね!」なんて括られたら、絶対に腹がたつと思う。それはアセクシャルだと思われたくない、ということではない。
わたしのことを勝手にカテゴライズしてきたという事実が腹立たしいのだ。

うまく咀嚼できない、理解の難しいものと対峙していたら、さすがに脳も疲れる。
でも、疲弊しながらも頭を回して目の前の人を理解しようとしましょうね!ということを言っているのではない。
よくわからないことがあったのなら、へぇ、そうなんだ。って、それだけでいい。
理解できなくたっていいんだ。
本来この世界のことなんて、どんなに賢くても全てを理解することなど不可能なのだから。
わたしのこの文章だって、わたしのものさしで見たものをわたしの解釈で書いているに過ぎない。これはまったく、この世の真実ではない。誰にとっても真理だろうと勘違いしてはいけないと思っている。
気にしたらキリがないし、何も書けなくなってしまうけど、フィクションのキャラクターであるという点に甘えてこうやって解釈して言葉に残させてもらっている。

何かを理解できない自分をまずは受け入れてみるのも、これからさらに広がっていくであろう多様性に満ちた社会での生き抜き方の一つだと感じている。

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