最初で最後(にしたい)の雑記

「小説を書いていて楽しいか」と問われたら、私は楽しいと即答できる自信がありません。

では何故書き続けるのか。そこにも明確な答えは無くて、頭に浮かぶ「こんなこといいな、できたらいいな」を文字に起こしているだけというのが実際のところです。
そこに何かしら伝えたいメッセージや主張などは、それほど無いのです(執筆の上でのポリシーとはまた別です)。

しかし様々な物語を通して、自分の中で未知との遭遇が起こることがあります。
私の場合は「想像以上に喪失を恐れている」ということがわかりました。
noteに公開している過去作、未完成のままストックしている無数の作品も含め、私の作品では死人が必ず出ます。
物語の装置としての死に対して否定的な私ですが、気付くと自身の全作品で人が死んでいるのです。
現在書き途中の拙作「想い溢れる、そのときに」を執筆中に、初めて気付きました。それほど無意識に、私は誰かの死を描いていました。

同時に、その死によって喪失感に襲われ苦悩する人間のことも描き続けています。
立場は様々で、各人の背景も心の移り変わりもまた、それぞれに違います。
これは全く意図しておらず、上に書いたようにストーリーを動かす目的の死を嫌う自分が、まさかこんなに死ばかりを扱っていることに無意識だったのです。

死ぬことへの興味というよりも、残された人間の心の動向に興味があります。
興味があると言うと少し不謹慎な気もしますが、私にとっては未開拓の領域なのです。
私は身近な人間の死をまだ経験していません。それなのに、日々情報として吸い込んでいるニュースには胸が押し潰されるような死が溢れ返っています。
それを自分の中にインストールするたびに、私は残された側の人間として嗚咽を漏らしてしまうのです。
始めはニュースを見て涙を流す私を心配してくれていた長女も、最近は「また泣いてる…」と言ってそのまま放置してきます。それもまた哀しい。

よそ様のことでこれ程心揺さぶられるのですから、実際に私の近しい人間が死んだ時、私は一体どうなってしまうのか恐ろしくて仕方がありません。
小説を通して、様々なパターンの死を描き、残された人間の喪失からの脱却過程を想像し文字に起こすことで、来る日に備えているのかもしれません。

以前、山田詠美先生がインタビューで「小説の内容について心乱れる状態で執筆はしない。そこを乗り越えてから執筆を始める」という主旨の発言をされていました。
宇多田ヒカルさんも、「歌詞を書くというのは涙でぐしゃぐしゃになりながら『この気持ちはなんだろう』と自分に問い続けた先にある言葉を拾い集める作業」だという意味のことを仰っていました。

どちらにも共通しているのは、作品と向き合う過程においては心乱されようとも、いざアウトプットをする段階では既にそのプロセスを終えているということです。乱されながら形にしていくことは決してないのです。勢いだけではダメだということですね。
自分の書き始めた物語に押し潰されそうになっている私には、まだまだ辿り着けない境地です。

しかし、物書き、というかあらゆる作品を作る人間はここを目指すべきなのです。
心の整理のつかないうちに排出されたものは、作品と呼べない代物になっていることが大半です。
衝動のみで描き切ったものが、多数の人間を魅了する作品となることは滅多にありません(それができる稀有な人間を、人は天才と呼びます)。
綯い交ぜになった感情を文字にするときこそ、冷静な視点を欠いてはいけないのです。

一体何の話?
今書いてるところ、めちゃくちゃ筆が進まなくて困っちゃうってこと。
一行書く毎に涙を堪えてます。こんな状態で書いちゃあダメなのよ。

気持ちを整理させる為に、自己分析も兼ねて雑記と致します。
noteにはこんなTwitterで書くような、日記以上エッセイ未満のお気持ち表明は書きたくないので、これっきりにします。


先に最終章の方が書き終わっちゃった。J.K.ローリング方式。
頑張ります。

食費になります。うれぴい。