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【小説】想い溢れる、そのときに(2)


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2


 しばらく雨の日が続いた。
 それでも毎日お昼を過ぎたあたりになると、真香はダボの家に足を運んだ。変わらずダボは真香の知らない話をたくさん聞かせてくれるので、そのたびに真香は興味津々で聞き入った。アジョナはずっとダボの座る椅子の下に丸く収まっていて、時折部屋の中央まで出てきて大きく伸びをしては、ぴちゃぴちゃと水を飲んだり、サイドテーブルの上に飛び乗ってみたりしていた。
 ダボが作った紅茶のクッキーは、食べるとだんだんと心が凪になっていくようで、真香はいつも何個か持って帰っては寝る前に食べるようにしていた。


 数日前のように、夢を現実だと思い込んでしまうようなこともなくなってきていたある日、真香はまたあの時の夢を見た。
 目覚めた瞬間に内容はすべて忘れてしまっているのに、何故かどうしても夢の方が現実に思えてしまい、久しぶりに窓辺を照らす朝日のきらめきが目に入らないくらい、必死に夢を思い出そうとしていた。どうしてももう一度、あそこへ行きたい。でも、それはどこだった?どうしてそこに行きたいと思うのだろう。確かにそこに、誰かがいた気がする。

 そう思ったとき、自分は家の中でひとりきりだという当たり前の事実を反芻した。ひとりぼっちという言葉だけが頭の中いっぱいに広がっていき、その変えようのない事実から逃げ出したいのに、この先もそれが永遠に続いていくという予感だけがそこに横たわっていた。
 真香はベッドから勢いよく立ち上がると、寝汗なのか冷や汗なのかわからないもので冷え始めている体を懸命に動かしながら素早く身支度をした。
 いつもより大分早い時間に家を飛び出して、とにかく誰かに会いたい一心でダボの家まで走っていった。



「おはよう。晴れたね。」

 いつもと変わらない様子でダボは真香を迎え入れた。どうしていつもより早く来たのかを聞いてほしい気持ちもあったけれど、そうしないダボのいつも通りの対応に、真香は少し安堵した。

「雨、長かったね。ほら、久しぶりに晴れたから、なんか、ね。早く来ちゃった。」

 頼まれてもいないのに言い訳をするかのようにそう言うと、真香は急に恥ずかしくなってしまい、俯き加減に窓際の椅子に腰かけた。
 キッチンの片隅でまだ朝ご飯を食べているアジョナがちらっとこちらに目をやったあと、すぐにまたお皿の方に向き合うのが見えて、真香はますます恥ずかしい気持ちになった。

「雨が悪いわけじゃないけど、やっぱり太陽の光は気分が良くなるよね。わかるよ。」

 真香の気持ちを汲んでくれたのか、ダボは優しくそう言うと、縁まで氷を入れたガラスのコップにレモングラスのハーブティーを注いだ。
 ぴしぴしと氷に亀裂が入っていく音がしばらく聞こえたあと、小さな瓶からシロップをひと掬い入れて、アジョナの目と同じスカイブルーのマドラーでからんからんとかき混ぜていく。その様子を眺めていると、真香の中で突然湧き上がってきた誰かに会いたいという気持ちも、ゆっくりと混ざり合って小さくなっていくように感じた。

 朝ご飯をみんなにあげるからと言って、ダボは椅子には座らずに植物に水やりをし始めた。
 そこかしこに吊り下げられている植物たちをひと鉢ずつ下ろしては、部屋のドアの横にある小さな洗面台へと運んでいきゆっくりと水をあげていく。ぼたぼたと鉢底から垂れる水が少なくなったあと、鉢を再び天井のフックに掛けていくのを繰り返しながら、ダボは昨日の話の続き(動物の体温とタンパク質の構造の関係について)をしてくれた。
 昨日よりもその話に興味が薄れてしまっていた真香は、ぼうっとダボの姿を眺めながら、生返事を繰り返していた。

「そういえば、ダボの庭にはあまりお花が咲いてないね。この前ひとつだけ見たっきり。」

 話の途中だったけれど、ふと頭に過ったことを真香が口にすると、小さなポトスの鉢に水をあげていたダボの手がぴたりと止まった。

「ひとつ?咲いていたの?」
「うん。オレンジ色のかわいい花。あ、ピンクだったかな。でも今はもう枯れちゃった?ずっと見てないけど。」

 そう、と言って、ダボはじょうろをサイドテーブルの上に置いた。アジョナがしきりにダボの足元に擦り寄ると、ニャアとひと声鳴きながら顔を見上げていた。

「この庭には花は咲かないんだよ。」
「え、でも」

 ダボが窓を開けると、アジョナは外に飛び出していった。
 久しぶりの晴れ間が嬉しかったのか、庭の真ん中で何度もゴロゴロと体を転がしては、気持ち良さそうに喉を鳴らしていた。昨日までの降り続いた雨をたくさん飲み込んで、木々はその枝を上へ上へと伸ばすように、柔らかな新芽を広げ始めていた。

「真香の庭には、ちゃんと咲いているよね? どんな花なのか今度持ってきて。見てみたいな。」

 眩し気に庭を眺めるダボは、何か別のことを考えているような表情にも見えた。
 アジョナが一緒にいるとはいえ、ダボは一人で淋しくないのだろうか。私が今朝、どうしても一人でいることに耐えられなくなったように、ダボにも同じような瞬間が訪れることはないのだろうか。誰か無性に会いたくなる人はいないのだろうか。例えば、自分と共に生活を送ってきた人達、友人や、家族。



…家族?



「クッキー、持っていく?」

 真香の返事を待たずに、ダボは戸棚から透明の小さな袋を取り出して、紅茶のクッキーを四つほど入れた。真香はただそれを眺めながら、今朝目覚める直前に見ていた夢の断片を頭の中で必死に追いかけていた。




「先に行くから。ちゃんと遅刻しないように。忘れ物確認もね。」

 女の人の声が聞こえる。
 彼女が扉を開けると、部屋の中にさっと朝の光が入り込んできて、一瞬目の前が白くなったようになる。女の人は、こちらを見て手を振っているようだけど、表情まではよく見えなかった。

「いってらっしゃい。」

 真香の声で発せられたその言葉には、「日常」が含まれていた。そしてそれを見ている今現在の真香には、どうしてか後悔の気持ちが押し寄せてきていた。
 この女の人に対しては、一言ひとことにもっと心を籠めるべきだったのではないだろうか。私の中にある溢れそうな気持ちを一粒残らず、会えるうちに伝えていくべきだったのではないだろうか。
 しかし、その溢れそうな気持ちというものが何なのかを、真香は思い出せなかった。逆光の中で読み取ることのできなかった女の人の表情と同じように、その気持ちの名前は白く朧げな霞の中に沈んでいるようだった。
 ただわかるのは、真香自身が一人でいることに耐えられなくなった原因が、あの女の人に会えなくなったことにあるということだった。それならあの人は、私の無性に会いたくなる人なのではないだろうか。



「お母さん…?」

 小さな声でそう呟いてみると、真香は目を見開いて顔を上げた。ダボは少し微笑みながら真香のことを見つめていた。

「花は、どれくらい咲いているの? ひとつ? ふたつ? それとも、数え切れないくらいかな?」

 眉間に皺を寄せながら、唇を震わせて何かを言おうとする真香に、ダボは優しく問いかけた。その質問に答えることなく、真香は家を飛び出して、力の限り丘を駆け上がっていった。
 いつもの草原を向かい風に逆らって走り続けていくと、風の足跡が真香の横を勢いよく通り過ぎていく。この数日間、ただ綺麗な景色だと思って眺めていたのに、怒りや悲しみのようなもので胸をしめつけられている今の真香には、ただ得体の知れない怪物の住処のようでしかなかった。
 私の日常はここにはない。この場所で、私は一度だって日常を過ごしたことなんてなかったと、真香は改めて思い返していた。

 家の庭が見えてくると、まるで心臓が耳の奥まで移動してきたかのように、ドクドクという低い音が速いテンポで鳴り響いてきた。走り続けたせいだけではないのはすでにわかっていて、更にその音に焦らせられる自分自身にも、真香は怒りが込み上げてきていた。
 少し落ち着かないとダメだ、でももし自分の想像や仮定が正しいのならば、私はもう、とっくに後戻りができないところまで来てしまっているはずだ。

 一面に咲き誇る紫の花々は、更に数が増えているように思えた。今日は晴れているにも関わらず、その風に揺れる姿が携えている淋しさや悲しみは、昨日雨に濡れていたときと何一つ変わらないように感じた。

「お母さん」

 花を前にして改めて口に出してみると、真香の瞳から絶え間なく涙が溢れ続けた。それと同時に、夢の中で見たあの光景も霧が晴れていくように鮮明に思い出せるようになった。
 母親の顔は確かに笑っていて、電車に遅れてしまわないよう慌てて出たものだから、まだ右のパンプスをしっかりと履けていない状態だった。二回くらい踵をこんこんと地面にぶつけて履き直す姿を見ながら、だからあと五分なんて言わずにアラームが鳴ったらちゃんと起きれば良かったのに、何で毎朝同じことしてるんだろうと半ば呆れながらも、真香はふっと小さく笑ったあと、自分の支度の続きをするために洗面所へと戻っていった。

 夢なんかじゃない。あれは私の最後の「日常」だ。


 花を四、五輪、乱暴に摘んだあと、袖で涙を拭ってから、真香は再びダボの家まで走っていった。

(3へ続く)

食費になります。うれぴい。