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【小説】想い溢れる、そのときに(7)


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あらすじと第一話



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7

 目を開けると、視界はぼやけていた。次々に溢れてくる涙が、目の前のダボの姿を細かく震わせ、滲ませていった。蓮の葉の上で風に揺れる朝露のように、左右どちらに流れるかを決めかねながらも、涙は真香の瞳から零れ落ちては、膝に乗っているアジョナの背中を濡らしていった。

「おかえり。」

 ぼやけたままのダボの表情は、それでもいつもの優しい笑顔のままだとわかった。

「このあたりで、一回やめておいたほうがいい。彼女も、…あぁ、君のお母さんも、ここからしばらくは同じ気持ちのままの毎日を過ごしていくだろうから。」

 アジョナが大きく体を伸ばすと、少し爪を立てながら真香の膝から飛び降りて、席を立ったダボの後を着いていった。ダボが戸棚から大きな瓶を取り出すと、にゃあと一回鳴いてから、自分の食器の前に座ってダボの動きを凝視していた。

「お母さんはね、とても綺麗な人なの。」
「うん。」

 カラカラと音を立てながらアジョナのご飯が食器の中に満たされていく。それを真香もアジョナもじっと見つめていた。

「いつも背筋が伸びていて、シャキっとしてて。私はちょっと鈍いから、色々と。だからお母さんには似てないのかなって。いつかあんなかっこよく綺麗になれるかなって。」
「うん。」
「でもね、毎朝急いでいるからなのか、靴を履くのがちょっと下手で。右足の踵がいつも入らなくて、ヒールをカツンカツンって二回くらい音を鳴らして履くの。」
「うん。」

 ダボがご飯を入れ終わると、アジョナはゆっくりと顔を下げて食べ始めた。ひと噛みするごとに、かりかりという音が部屋の空気を鋭く行き来していった。

「そこでちょっと焦ってるってゆうか。若干イライラしてる感じがおかしくて。そういうところは、可愛くて。ちょっと私に、似てるなって思ってて。」
「うん。」

 ダボはその場にしゃがんで、アジョナがご飯を食べる姿を見つめていた。

「もちろん私のことも好きでいてくれていた。それはちゃんと私も感じてた。それと同じくらい、自分のことも大切にしている人だったの。だから私も、そういう大人になりたいなって、お母さんみたいな人になりたいなって、ずっと思っていたの。」
「うん。」
「でも、私のせいで、…お母さん」

 止めどない涙の応酬に耐えられなくなって、真香は力いっぱい目を閉じた。それでも瞼の隙間からは滾々と湧き出る泉のように、涙が溢れ続けていた。巨大な手で心臓のあたりをぎゅっと掴まれているような息苦しさに、声にならない声を漏らしながら、真香は嗚咽し続けた。

「真香のせいでは、決してないよ。」

 ゆっくりと真香の隣に行くと、ダボは頭を優しく撫でながら言った。その手の包み込むような感触に、真香の張りつめていた心の線が緩んでいった。少しずつ瞼も唇も力が抜けていくと、決壊を待っていたかのようにすぐに大きな泣き声が胸の奥底から押し寄せてきた。不安の中で、まだ母親の手を求めて彷徨う小さな子供みたいに、真香は慟哭するのを抑えられなかった。

 ようやく涙も叫びも落ち着き始めたとき、外はすでに夕暮れの色を纏い始めていた。遠くに沈んでいく太陽にさようならと手を振るように、木々は穏やかに葉を揺らしていた。

 ダボは、本棚やテーブルに置かれている、色とりどりのキャンドルに明かりを灯していった。ひとつひとつに小さな炎が点くと、そのたびに揺れる影が増えていき、次第に影同士が重なり合っては薄まって、緩やかに光へと変わっていった。

「私もね、同じだったの、さっき見たお母さんと。」
「うん。」
「私も、最近のお母さんのこと、あまり上手く思い出せないでいたの。うんと小さかったころの、継ぎはぎの記憶しか思い出せなかったの。一緒に夜ご飯食べたり、お出かけしたりもしてたのに、友達と話したこととか、部活のこととか、そういうのばかり思い出し始めてたんだけど、お母さんの表情とか仕草とか、私が死ぬ前よりももっと前の記憶の方が、多く出てくるの。」
「うん。」

 すべてのキャンドルに火を点け終えると、ダボは真香の正面の椅子に腰かけた。揺らめく陽炎と共に、ラベンダーのすっきりとした甘い香りが少しずつ部屋に溶け出していた。

「私、どうしてもっと今のお母さんのこと、よく見ておかなかったんだろう。当たり前だって、ずっとこのまま二人とも生きていけるんだって、そんなことあるはずないことくらいわかってたはずなのに。いつか、どっちかは死んじゃうんだって、こんな…死んでから気付くなんて。」

 そうだね、と小さく返すと、ダボは背もたれに寄り掛かった。木の軋む音が鳴ると、部屋の片隅で寝ているアジョナの耳がぴくっと動いた。

「ここに来る魂は、みんな一緒だよ。真香と同じ後悔を口にしている。実体を保てる時間が限られていることを全員が知っているのに、それをちゃんと『わかっている』者は一人もいなかった。」

 どこか懐かしむような口ぶりで、小首を傾げながらダボは言った。左耳に垂れ下がる金色の細い鍵のピアスが、キャンドルの炎に照らされて鈍く光った。

「でもね、それをわかっている状態で過ごさなかった彼らの時間というのは、とても有意義なものだったんだよ。決して無駄ではない。限られた時間をどう過ごすのかなんて、そんなこと考えなくてもいいように、誰かが安心できる環境を作ってくれていたということだからね。」

 目をまっすぐに見つめながら話すダボの表情は、いつになく真剣で、少し淋しそうに真香には映った。

「言い換えればそれは、他者への愛そのものなんじゃないかな。お母さんが、真香を愛してくれていたからこそ、その時間がいつかは無くなってしまうものなんだって、考えなくて済んでいたんじゃないかな。」

 眉毛を八の字に下げて微笑むと、ダボは再び立ち上がって真香の頭を優しく撫でた。また涙が滲み出てきたが、今度のそれは降り止みそうな夕立のように、穏やかで温かかった。


 「今日はゆっくりと寝て、また明日おいで。アジョナに触れるかは、その時に考えればいいよ。」
 とダボが言うと、真香は頷いてから小さく微笑んで扉を閉めた。

 ほっとしたように長くため息を漏らしたあと、ダボは再び椅子に深く座った。頬杖を突きながら窓の外の暗闇を眺めていると、アジョナがテーブルに飛び乗って小さくにゃあと鳴いた。

「少しね、おしゃべりが過ぎたかな。」

 顎の下あたりを撫でると、アジョナは気持ちよさそうに目を細めながら、ぐるぐると喉を鳴らした。

「ん?いや、ただの気まぐれだよ。でも…そうだね、少し何か、わかりそうだったのかも。あれは多分、僕の言葉ではなかった。別の誰かが、教えてくれたこと。」

 ダボの手をひと舐めしたあと、アジョナは床にとすっと飛び降りて隣の部屋へと消えていった。

「なるべくそうするよ。でもちょっと、手助けするくらいは構わないだろう?」

 暗闇の中から、にゃあとひと声、アジョナが鳴いた。


(8へ続く)


食費になります。うれぴい。