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おばあちゃんのこと 11/8

今年の夏におばあちゃんが亡くなった。
96歳だった。
おばあちゃんはこの年まで自分の身の回りのことは自分でしていたし、会話もはっきりしていた。
毎晩新聞に目を通して、いつだって新しいことに興味を示していた。
ドローンが出はじめのころはその仕組みと利用目的が気になって仕方がない様子だったし、年越しは「笑ってはいけない」を観て大笑いしていた。
なんていうか、死ぬ気配が感じられなかった。ほんの一年前までは。

おばあちゃんはもう十年以上変わらない暮らしをしていたけれど、ここ数年で家の中は大きく変わっていた。
父は大きな病気をして病院に入った。
母も持病が見つかり無理が利かなくなった。
姉が結婚して、家にはお婿さんが来た。
姉とお婿さんの間に赤ちゃんが生まれた。

変わらないおばあちゃんの暮らしに色々な変化が起こっていた。
おばあちゃんの暮らしをいまさら変えるのはとても困難で、けれど、老いていく母と、進行する父の病気、元気いっぱいの赤ちゃんと、新しい家族、みんな変化についていくことに必死だった。
まだまだ勝ち気で元気なおばあちゃんのことをかまう余裕は次第になくなっていったのだ。
おばあちゃんの身の回りのお世話はさほど必要はなかったけれど、おばあちゃんがいることで手が抜けないごはんの支度、ちょっとしたおでかけのお手伝い、母の体調がついていかないとき、様々な時におばあちゃんのお世話がみんなの重荷になっていった。
少しずつ、デイサービスだけでは足りなくなって、介護施設にお泊りをお願いするようになり、最終的には老人ホームに入居してもらうかたちになったのだった。
家族みんな、苦渋の決断だった。
おばあちゃんは最後まで入居を渋っていた。

入居して、一ヶ月が経った頃、おばあちゃんの体に異変が見つかった。
癌だった。
けれど、96歳の体にメスを入れることはだれも望まなかったし、なにより、検査に体力が伴わないだろう、というお医者さんの見解だった。
これからおばあちゃんの体に苦痛が増えるのだろうか、とみんなが心配していた矢先、ある朝おばあちゃんは入居先の施設で眠るように亡くなっていた。
老衰、とのことだった。

こんな言い方はおかしいのはわかっているのだけれど、おばあちゃんはちょうどよく亡くなったな、と思ったのだ。
子どもの頃、両親は共働きで、母は病弱な姉と妹の世話に、仕事に、いつだって忙しかった。だから私はおばあちゃん子で、いつもおばあちゃんについて歩いていた。おばあちゃんと一緒に畑に行き、おばあちゃんと一緒にお寺に行った。お寺に行くときはいつも自転車の荷台に座っていた。お尻が痛いと話す私におばあちゃんは荷台に座布団を括りつけてくれた。
病弱だった姉が入院して母が不在の夜は、おばあちゃんの布団でおばあちゃんの太ももに足を挟んで寝た。

おばあちゃんが亡くなって、さみしくなかったかと言われたらさみしかった。
けれど、それ以上に、よかったね、という思いが強かったのだ。
おかしな話だけれど。
おばあちゃんはおばあちゃんをたくさん生きて、十分に生きて、たくさんのお役を終えて、少しずつ、みんなおばあちゃんが必要ではなくなって、おばあちゃんがいなくても大丈夫になって、少しずつ、この世にさよならをしたのだと思えたのだ。
もう、おじいちゃんのところへ行っていいんだよ、そう神様が言ってくれたのだと思えたのだ。
癌が見つかったけれど、痛みに苦しんだりすることもなく、自然と、眠りの中で安らかにおばあちゃんは旅立った。
あぁ、よかった、と思ったのだ。

おばあちゃんに会えなくてさみしい。
もう、おばあちゃんがつくった餃子を食べられなくてさみしい。
「幸せになりなさいよ」と言ってもらえなくてさみしい。

でも、おばあちゃんは今、おばあちゃんにちょうどいいところで、きっと幸せに暮らしている。
信仰深かったからきっと極楽浄土にいるはずだ。

たくさん私たちの幸せを祈ってくれてありがとう。
私はきっとこれからも幸せだ。
有り余るほどの祈りをおばあちゃんがくれたから。
たくさんおばあちゃんと居られたから、ちっとも不足はない。
ちゃんと足りている。
かなしくなんてない。

真っ白な髪をきれいにとかして、いつもおしゃれなワンピースを着ていたおばあちゃん。
私もいつか、おばあちゃんのように幸せに死ねたらいい。
いつかのその日、ちょうどよく、死ねたらいい。

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ここまで書いたけどなんとなく公開できなくて熟成下書きになったnote。

おばあちゃんは昔から情緒が不安定で、それ故、母に当たり散らしたり、親戚のおばさんと派手に衝突したりしていた。わりとくそばばあな面もあったのだ。

信仰深さが過ぎて、お寺にお布施を払いすぎたり、時には誰とも知らない人のお葬式に行くこともあった。つまり、面倒くさい人でもあったのだ。

死んだ人のことを悪く言うのは気分がいいものでもないし、かと言って綺麗に書いてしまってはなんだかつまらない上に嘘くさいし、と思った末に熟成させてしまった。

でも書いていることは嘘ではないし、おばあちゃんの死を悲しいだけにしたくない気持ちは残しておきたいのでハッシュタグ企画をありがたく利用して、公開する。

ばあちゃん読んだらぶつぶつ言うかもしれないな。



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