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おかえり結婚指輪

先週だったか、実は夫と喧嘩していた。
またか、とか言わないで。
三人育てていると三人分喧嘩の火種があるようなものだから大目に見てくれたら嬉しい。
我が家の喧嘩は基本的に私がひとりでカリカリ怒っているところへ夫がムスッとするか、知らないそぶりを貫くかなのであまり派手さはないのだけど、それでも私は頭が煮えてくらくらするほど腹を立てているのだから喧嘩と言っていいと思う。
少し前から仕事が忙しかった夫が、あまりこちらをかえりみていないことにそもそも不満がたまっていた。
園の発表会を数日前になって「いつだっけ」と言われたり、当日には集合時間さえ頭に入っていなかったり、それなのに当日集合間際のおひるごはんを簡単に用意したら「野菜がもすこしほしいな」と言われて、時間がないのに、説明したのに、あれもこれもぼんやりとしか把握しないからそんなことが言えるんだバカタレがと腹が立った。
野菜のことは聞き流そうとしたが時間が迫っているのに野菜を求めて台所を熊みたいにうろうろするのが目障りだったので仕方なく野菜を三種類ほど炒めて野菜炒めを作った。
予定したタイムテーブルはその瞬間に崩れ去った。
その後バタバタと走り回る私をなんとなく冷めた目で夫が見ているような気がした。
「なんでもっと時間に余裕をもたないんだろう」と言いたげなのがびしびし伝わった。
そこから数日はっきり言って私は夫のことが心底きらいだった。
次の日も、その次の日も、私にも非があったな、と思うことはできたのだけど、どうにも腹の虫がおさまらないし、夫のことが好きになれなかった。
夫はやばいと思ったのかあれこれ家事をせっせとこなし、子どもたちともいつも以上に積極的に交わっていた。
それでもやっぱり夫がきらいだった。
もはや野菜炒めのことはどうでもよく、夫を見ればなんだかじわーっといやな気持ちになり、こいつにいいところなぞ何もない、ときっぱり思うことができた。

結婚十年目にしてこれはいよいよ危機なのでは、離婚とかするのでは、別居とかするのでは、私ってば言いだしたらきかないから、走り出したら止まらないから、走り出したらどうしよう、と自分で自分に焦る部分もあった。
けれど焦る気持ちとは裏腹にやっぱり静かに夫のことがきらいだった。
それと同時にあんな善良な人をきらいと思うなんてばちがあたるんじゃないかなぁ、という後ろめたい気持ちもあった。
そのくらいの良心は私にもある。

私の夫嫌いが継続して五日目だった。
結婚指輪がないことに気が付いた。
私は普段から結婚指輪を家の中ではあまりつけない。家にいるときは基本的にはずしていて、外出するときだけつけている。
つまりつけ外しが頻繁なのでどこに置いたのか忘れることが時々ある。
それでもだいたいいつも心当たりを探ればきちんと出てくるのだけど、この時はどこを探しても見つからなかった。
キッチンにも、洗面台にも、お風呂場にも、鞄の中にも、どこにもなかった。もちろん普段の指輪置き場にもなかった。

私たちの結婚指輪は、京都に住んでいたときにオートクチュールで注文したもので、同じものを手に入れるにはまた京都まで行き、一からつくってもらうしかないのだ。
けれど、当時、歳のわりにわりと立派なお給料を頂いていた私たちはまぁまぁに奮発してそれを買ったので、今同じものをオーダーするなんて子育て真っ盛りで物入りな今日、想像することさえはばかられる。
そして、よく考えたら京都にあったそのジュエリーショップは確か横浜に移転したのだった。遠すぎる。
指輪は二連のように見えるデザインで、上部には小さなダイヤが並んでいる。結婚指輪には向かないと言われたけれど、大好きだったピンクゴールドでしつらえてもらった。
私は指が異常に細く、合う指輪になかなか出会えないので、ここぞとばかりに自分の好みを詰め込んだのだ。
夫のことがきらいでも指輪のことはきらいになれない。大好きだ。諦めるわけにはいかない。

「結婚指輪……知らない??」
意を決して夫に問いかけた。
「え、見てないよ?ないの?」
夫はここ数日の私の悪態に気付いていなかったかのようにそう言うと、家の中をあちこち探しまわってくれた。
バツが悪いけれどそんなことは言っていられない。大好きな指輪のためだもの。
ふたりで家じゅうをひっくり返して大捜索したけれど指輪はどこからも出てこない。
ひかり物が大好きなために疑われた末っ子は何度も私から「ママの指輪知らない?」と訊かれていた。
おもちゃ箱の中も、キッチンの引き出しの中も、冷蔵庫の中も、コートのポケットも車の中も探したけれど見つからなかった。

ついに「ごめんなさい」と言葉が漏れた。

指輪をなくしてごめんなさい。
大捜索につき合わせてしまってごめんさなさい。
なん日も悪態ついてごめんなさい。

いろいろぎゅうぎゅうにつめこんで謝った。

「ううん、いいよ」
と夫はこともなげに言って引き続き指輪を探していた。

騒動の間、長女と息子はずっとテレビを観ていた。
「ママの指輪知らないよねぇ」
とふとテレビを観る二つの背中に問いかけると、
「この前おままごとでおりょうりにつかった」
とテレビに視線を向けたままの息子が言った。

おりょうりにつかった
おりょうりにつかった
おりょう???り?に?つかった????????

私はおもちゃのキッチンを探し、夫は息子のおもちゃが入ったリュックを探った。
夫がリュックの外ぽっけのチャックを開けるとそこには懐かしの私の結婚指輪がこれまた行方不明だった私の腕時計と共に登場した。
お帰り私の指輪。ついでに腕時計。

「こんどばーばのおうちに行くときにみせてあげようかなーと思って」
と息子はしょんぼりと言った。

肩の力が抜けてははは、と笑って、夫も笑って、なんか色々まぁいっか、と思った。

また読みにきてくれたらそれでもう。