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ライフストーリー① 中国で過ごした幼少期・両親と離れる思い

私は10歳の時に両親と再会するために中国から来日した。言語や文化の壁にどのようにうまく付き合ってきたのか、大人になった今、振り返った時の新たな気づきを共有しようと思う。それだけでなく、日本にいる年数が長くなるにつれ自分の考えはどのように変化していったのか、周りの人とどう関わっていたのか、幅広く書いていきたい。

「外国につながる若者」の一人ではあるが、自分の経験はユニークである上、主観的に書いている。しかし、この経験は日本社会という文脈で形成されたものであって、そこの普遍性はどこまであるのか?そんなことを考えながら読んでほしい。これまでも外国につながる児童を支援する方にお世話になったが、経験している本人にしか感じとれない・わからないことが多くあるはずだ。また、同じような背景を持った若者が共感しながら読んでもらい、読んだあとに勇気づけられたと感じてくれると何よりも嬉しい。

両親が日本にいた経緯

両親の若い頃

私の家族は中国の福建省の出身で、父は4人きょうだいの長男として生まれ、1990年頃に高校卒業して来日した。来日当初は語学学校に通いながらバイトを掛け持ちしていたようだ。その後、同じ福建省出身の母と日本で出会い、定住した。母が姉と私を出産する時は中国に戻り、その後は仕事のため日本に戻った。中国で生まれた私と姉は父方の祖父母と一緒に暮らしていた。

私(1ヶ月)とお姉ちゃん(1歳)

中国で過ごした幼少期

記憶がある頃には、祖母・祖父・姉・私の4人暮らしで、両親が日本に働いていることは知っていた。後から、同じく日本で働いていた叔父の子供が祖母に預けられたため、いとこ2人が増えて賑やかになった。みんな読むことが好きな子供だったので、祖母は用事がある時には私たちを本屋に一日中預けることがよくあったそうだ。

私の通っていた小学校は近くの公立小学校だった。先生は怖いおばさんばかりで、課題を忘れると手が叩かれるのが普通だった。課題量は多く、午前中に出した課題を昼の帰宅時間中に終わらせ、午後提出することもよくあった。国数英の教師が大きな権威を持ち、それ以外の科目は形式的にあったように感じた。小学生になる前は色んな習い事をさせられていたが、小3に上がってからは勉強が忙しくて全て辞めた。それまではクラスのトップだったが、小3から始まった英語の授業について行けずに苦労した記憶がある。

祖父母と従兄弟、姉、私、右にいるのは近くに住んでいた叔母とその娘。小学校の制服は月曜に朝礼があるためその日のみ着用していた。

離れて暮らしていた両親への思い

母が帰国した時に撮った一枚

母は年一回帰国していたので会う機会があった。たくさんのお土産を持ってきてくれて、よく買い物に連れて行ってくれた。母は帰国している間、積極的に面倒を見てくれたが、私と姉はすぐに距離を縮められず、今思うとすれ違いがあったように感じる。

母が日本にいる間は時々電話をかけてきて、いつも祖母と話したあとに私と姉が電話に出ていた。「最近はどう?」とか「勉強の調子は?」など聞かれていたけど、何を答えればいいか分からず、会話が続かない記憶がある。母とは言え、一緒に暮らしていなかったので上手く自己開示ができなかったのかもしれない。

離れて暮らしている間は、特段に両親がそばにいない寂しさはなく、両親がいて欲しいと思うことは祖母と喧嘩した時ぐらいだった。むしろ帰国している母が親密にスキンシップを取ることに抵抗があったり、せっかくの好意に戸惑ったりした。きっと両親の苦労がまだ理解できなかったのかもしれない。

際電話で使う電話カードのコレクションが11ページあった。

幼少期と今の自分

中国で過ごした幼少期は自分の礎になっているだろう。

両親ではなく祖父母と暮らしていたことに違和感を覚えなかったが、より近い距離でかまってもらう存在がなかったため、自分の世界に没頭していた子だったのかもしれない。競争社会が産んだ教育制度に気づいたのは後になってからのことだが、今でも自分に残る影響を考え直すことがある。

先天的な要素を加味しながら、個々の経験が自分をどう形成したかを紐解くのは至難の作業だが、時に振り返ると面白い発見があると思った。


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