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人格整理(青年期~成人初期【中学生編】)

お久しぶりです。また期間が空いてしまいました。
今までの自分の習慣を変えるというのは中々一筋縄ではいかないものですね。
有言実行をすぐにできる人が羨ましいですね。

という事で今回は、前回の投稿でも予告させていただきました、最初の投稿の「人格整理(幼児期~学童期)」の続きになります。そちらの記事を読んで頂いた後にこちらをお読みいただくことをオススメいたします。
タイトルが中学生編とありますが、書いてる際に中学時代だけでも濃くなる予感がしたので、投稿を分けさせていただく事にしました。

読みにくい文章ですが、どうかご容赦ください。


青年期(中学生編)

 小学校を卒業した私は特に中学受験をせず、地元の市立中学校に通うことになった。小学校から仲良くしていた友人とも同じ中学に行く人がほとんどだったので、新しい環境に対する緊張を少し感じつつも安心感はあった。

中学生になると部活に所属する事が強制されるが当時私は、テニス部に入りたいと考えていた。小学生の時のクラブ活動でテニスを軽くやっていたり、姉が小学生の時にテニスを習っていたのを見ていたということもあり、少なからず興味を示していた。
しかし、私の所属する中学にはソフトテニス部しかなく、さらに女子部員しかいない「女子ソフトテニス部」状態だった為、早々に私の思惑は打ち砕かれた。
せめてテニスのような球技をやりたかった私は「卓球部」に目をつけた。これも姉が中学時代に所属していた部活である。私は英語で「table tennis」とも言うしやってみるか程度で所属を決めた。同時に私はBを誘い二人で入部することになった。

ここから私は怒涛の3年間の中学校生活を送ることになる。

私は所属した卓球部は校内で一番厳しい部活かつ、結果を残している部活であることは知っていた。昇降口に大会の賞状が一面に張り巡らされていた光景に衝撃を覚えた程だ。
私はそれを承知の覚悟で入部したわけだが、それには覚悟が生半可すぎたと感じる。

入部後まず私達は「校庭の走り込み」、「廊下でひたすら筋トレ」、「壁打ち」の繰り返しの日々に明け暮れた。
厳しい部活は最初は中々打たせてくれないというやつである。まさにその最たるものであった。筋トレは2種類の腹筋、背筋、スクワットを5セットずつやるグループと走り込みをするグループに分けられ、交代交代でひたすらそれらを繰り返すものだった。記憶はおぼろげだが、平日は一回も卓球台に立たせてもらえなかっただろう。
土日は体育館で練習が基本だが、練習試合や大会等で予定が変わる日もあった。ここでも筋トレや走り込みをこなし、その後にようやく卓球台に立つこと事ができた。

休みも少なく、正月か定期テスト1週間前以外は活動していたと思う。

具体的な内容を記述していくときりが無いが、ここまでの内容であればそれなりに厳しい部活である。
ただ、そこの顧問が中々の曲者だった。

𠮟責は勿論、部員の一人が問題を起こしたら連帯責任として、練習がストップし、奉仕活動として廊下掃除を延々とさせられた。その問題がその日中に解決はすることなど当然なく、翌日、翌々日、長くて1週間ほど続くこともあった。最終下校時刻まで残り、何度も職員室を訪れ、「部活をやらせてください」と懇願し、無視され、それでもしがみつき、許しを懇願することの繰り返し。原因を自分自身で客観的に分析して反省するという思考と行動を何度もさせられた。
本人としてはこれが目的だったのかもしれないが。

起きた問題をいくつか挙げると
・先輩が球拾いをしている時に休憩しようした
→見せしめに先輩が球拾いをしている光景を見ながらおにぎりを食べさせられる拷問を受けた
・部員が下から飛んできたバトミントン部のシャトルを足で蹴って落とした
→当人に退部届が突き付けられる

これだけでもほんの一部である。掃除以外にも走り込みをさせられることもあったかな?

恐ろしい事にこういう事が日常になってしまうと顧問にいかに怒られるような行いをしないか、強くならなければいけないという強迫観念に駆られてしまう。自分の為にやる部活がいつの間にか他人の顔色を窺い怯えながらやるようになっていた。それもあってか全体の結果は多く残していた。1歳上の先輩の代では団体で全中出場を果たした。その勢いに乗るように同級生はレギュラー争いで互いに切磋琢磨し合っていたように思う。では肝心の私はどうだったか。

ずっと部内ランキング最下位だった。

一度たりとも順位が変動することがなく入部から卒業まで最下位だった。

周りとの実力差は明らかで、試合形式ではボコボコにされる毎日だった。

マンガや小説、ドラマであるような最下位からの下剋上なんていうことはそうそう起きる物ではなかった。

最下位になるとどうなるか、大会では捨て駒扱いされ、一部の練習試合では連れていかれずに、学校で通常練習し、後輩の面倒を見る。

これだけならまだマシな方だ。寧ろあの顧問と会わなくてラッキーとすら当時は思っていた。
しかし、顧問、部員、部内全体から明確に違う扱われ方をされる事を繰り返される内に、自分が部内から色物扱いされると思うようになり、途端に肩身が狭くなり、部活のやる気は次第に無くなった。

卓球は繊細な競技である上に、咄嗟の機転や駆け引きが勝負を左右する頭脳戦の側面が強い。感覚で身体で憶えてプレイするタイプの私としては相性は最悪だった。そもそも選手としての適正がないのだ。更に理屈や理論は分かっていても技術が伴っていないので実践で活かせない、日々の練習も本番を想定した練習のつもりでも練習の為の練習という意味の無いものになっている、その事に嫌気と虚無感を感じながら3年間延々と繰り返していた。

ではどうすれば良かったか、答えは「卓球」という競技に真剣に向き合うべきだったということに尽きるだろう。感覚である程度上手くなるのは誰でもできるがその上に至るには努力だけでは補うことができないという事が現実だ。私は3年間部活をやり抜くことしか考えておらず、ずっと耐える日々を送っていた。感情のコントロールができていなかったが故の失敗だ。
意固地になって環境のせいにして自分の考えと行動を改めようとしなかった結果だ。

原因は私の本質的な部分である。


と言い切れたならどれだけよかっただろうか。



上記の環境からこの考えに至るのは当時の私には到底不可能だったし、今でも思う。環境が人に与える影響というものは絶大だ。
高めることも壊すことも簡単にできてしまう。
この環境のどこに私の自己肯定感を満たせるような要素があっただろうか?
残念ながら存在しなかった。部外の周囲に相談すればよかったと思うかもしれないが現実は残酷過ぎた。

3年生になって例の顧問は異動になり、部内全体の流れは当然大きく変わった。朝練に来なくなったり、日々の練習に緊張感が無くなった。
しかし、もう当時の私としてはどうでもよかった。
居ようが居まいが関係ない、高校受験もあって勉強しないといけない上にレギュラーメンバーでもないので学校総合体育大会(学総)で団体がどれだけ勝ち上がろうが自分には関係ないと他人事だった。
そうなると私は何の為に練習をしているのだと当然思う。
個人戦も終え、完全に練習に参加する意味が無くなった時、私は顧問に早めに引退させてくださいと頼んだ。

しかし「今辞めたら退部扱いする」と言われた。

別に退部になってもいいじゃんと思うかもしれないがそういう訳にもいかなかった。

埼玉県では部活動の成績が内心点に顕著に反映されるという訳の分からない風潮があり、(一応団体戦で1試合でてる)という事もあった為、ここで退部扱いをされるのは私にとって死活問題だったのだ。

どこまで私は自分の自尊心を犠牲にしなければいけないのだろうかと腹が立ち、顧問と大喧嘩した。それに追い打ちをかけるようにこの件が私の学年の体育教師、担任にも伝わり、生徒指導室で何故か説教を食らう羽目になる。
結局部外に相談しても私の言い分を聞いてくれる人はいないのかと絶望した。親からは受験あるからさっさと引退しろの一点張りで意味が無かった。

結局、議論は私の敗北に終わり、7月の県大会まで練習に残ることになった。団体としては関東大会まで駒を進めることにはなったが、私には関係の無い話だった。

ようやく解放されたのも束の間、私は塾に通い詰め、三者面談の際に言われた成績の低さを挽回する為の日々に明け暮れた。脳死でひたすら問題を解きまくり、暗記させる作業をひたすら繰り返した。結果的に成績は平均並みになり、県内の公立高校に合格した。

ちなみに卒業間際に手渡された通知表に私の卓球部所属の文字は残されていませんでした。

あのやり取りは一体何だったのだろうと私の心の中には虚無感しか残っていなかった。

そんなモヤモヤを抱えながら何とも言えない気持ちで中学を卒業した。


部活以外でのエピソードは無いのか!と飽きている方もいると思うので一つだけ面白い話をします。

1年生の時、クラスで私は1人の女子に嫌われていた。その女子とは小学校も一緒で引っ越す前の家でよく親と歩いているのをよくすれ違う事が多く、軽い挨拶をする程度の関係で嫌われてはいない筈だった。
それが中学に入って同じクラスになり、きっかけは分からないがいつの間にか嫌われていた。その子に対して何か言った記憶も何もないが嫌われていた。同時に周辺の女子からも煙たがられていたようにも感じる。それに便乗していただけだったのかもしれないが、ある日の席替えでその女子と隣になった時の事。

その女子が突然泣きだした。

クラスメイトは当然私が泣かしたと思い私を責め立てる(特に女子がすごく怖かった)。そして担任になぜか私だけが職員室に連れていかれ、事情聴取を受けた。私は生きて帰れないことを悟り私の感じた事情を全て説明した。
担任は私に同情した。慰めのつもりだっただろう。何とも虚しい気分になった。その担任は剣道部の顧問で非常に怖く厳しい事で有名で、「中学は理不尽を学ぶ場だ」と豪語するような人だったからだ。そんな人に同情されたことで、理不尽なことを受けているという事実を私は自覚し、部員からのイジりにも耐え(何故か既に共有されていた)、家で沢山泣いた。
その後の1年のクラスでは女子らの冷ややかな態度におびえながらなんとか耐えました。


以上が私の中学時代のエピソードです。
個人的に自信作ですがどうでしょう?

中学時代は思春期という人間のアイデンティティの基盤を確立させる重要な時期です。私はその時期をいい意味でも悪い意味でも濃密な日々を送ったなと思います。ただ、高校生になってからは急に堕落していくんですけどね…

最近では教師の負担や生徒の負担を減らすために部活の休みの義務化などの法律がスポーツ庁から定められ、学校の働き方改革という形で見直されつつあります。
それだけの社会問題の中に私はいたのだとそのニュースを聞いた時に初めて実感しましたが、今更かよというのが正直な気持ちです。

我慢や耐えることによる忍耐力をついたと思われるでしょうが、これがメンタルを強くすることと同義ではありません。それ以上に失ったものが多すぎ気がします。寧ろあの瞬間から今に至るまで私の精神的に打たれ弱くなったと思います。
あの瞬間は大丈夫だと思っていても「感情」では思っていても「身体」は違う。中学生になってから肌荒れやらニキビやらに悩まされる毎日が始まりました。時期的にニキビは仕方ないと当時は思っていましたが、一向に改善される事なく、今も苦しめられています。

逃げたくても逃げられない、八方塞がりの最悪な状況に陥った時、全てを捨てて逃げる覚悟というのも時には必要なのだということに気づきました。
自分に責任があるから耐えなければいけないなんてことは絶対にありません。
耐えようとするほど無意識に心と身体は疲弊していきます。
当時の私には味方はいませんでしたが、最後の最後に反抗した事で自分を守れたのだと思います。
結局自分の身を守れるのは自分だけだという事、スパルタの環境は私には合わないのだという事が中学3年間の一番の学びだったと感じています。

高校の頃のエピソードは次の投稿で書こうと思います。また期間が空くかもしれませんが、お許しください💦


それではまた!!!

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