神の働きはサプライズ!
この記事では2024年9月22日(日)の十日町教会日曜礼拝における説教(聖書に基づくメッセージ)を掲載しています。聖書やキリスト教に興味と関心のある方、神さまから自分に届けられている良い知らせを聞きたいとの思いがある方に読んでいただけるとうれしいです。
聖書:ローマの信徒への手紙11章33-36節
説教:
私たちの理解を超える神
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」今日の手紙に記されたこの言葉は神が私たちの理解を超えた存在であるということを言い表そうとしています。私たちの理解を超える神が存在する、それは私たちの目に見える世界だけでなく目に見えない世界がある、ということに目を向けることでもあります。
目に見える世界と目に見えない世界
目に見える世界と目に見えない世界と聞いて皆さんはそれぞれどんな世界を思い浮かべるでしょうか。例えば教育の世界では認知能力と非認知能力という言葉が用いられます。認知能力とはテストで測ることのできる、いわば目に見える能力です。足し算や漢字のテストを通して点数を出すことでその子の算数の理解度、漢字の習熟度を測ることができます。一方で非認知能力とは創造力、集中力、社会性、主体性、危険予知能力、忍耐力などテストでは測ることのできない能力のことです。最近の幼児教育では、非認知能力は目に見えないけれどその人の土台を作るのに欠かすことのできない能力だと言われています。だからこそまずは保育園、幼稚園で非認知能力を十分に養いその子の人間としての土台作りをすることが重要だと言われています。目に見える能力以上に目に見えない能力が大切なのです。
目に見えるもの以上に目に見えないものが重要である。このことは神さまがお造りになった世界、自然に目を向けても同じではないでしょうか。先日、息子の希望で十日町市立里山科学館・森の学校キョロロに行ってきました。展示を通して自然が持っている、通常は目に見えない世界の重要さを知りました。山に積もった雪が溶け、少しずつ棚田に水を供給するのはブナ林など木の根っこという地面に潜っていて目に見えない部分が非常に重要であること、さらには土の中にいて目に見えない土壌生物のおかげで豊富な水を蓄えることができるというように、目に見えない世界の重要さを学ぶ時となりました。
ローマの信徒への手紙が書かれた経緯
今日朗読されたローマの信徒への手紙を書いたのはパウロというキリスト教の伝道者です。ローマの信徒の教会はものすごく人数が多いわけではありませんでしたが、当時は「すべての道はローマに通ず」という言葉があった時代です。ローマの信徒の教会は世界の中心都市ローマに根を下ろした教会として特別な意味を持っていました。パウロにとってローマは訪れたことのない場所でしたし、そこにいる人たちも当然面識がない人たちでした。しかしパウロはいつかローマを訪れたい、さらにはその先のイスパニア、現在のスペインにイエス・キリストの福音を届けにいきたいという思いがあってこの手紙を書きました。
パウロがその人生を通して経験したこと、知ったこと
この手紙は現存するパウロの手紙の中で最晩年に書かれたものだと言われています。手紙を読むと非常に内容が濃く、彼がこれまでの人生で経験した様々な事柄が詰まっているように感じます。彼はこの手紙を書くまでにシリア、小アジア、マケドニア地方を旅してきました。中でも彼が旅したギリシア風の町々ではギリシア神話の神々が人気で至る所に神々の像が設置され崇められていました。使徒言行録という新約聖書の書物にはパウロの宣教旅行の様子が多く記されていますが、リストラという町の人々の間で神々がどれだけ身近な信仰の対象として崇められていたのかが分かる出来事が記されています。そこではパウロが足の不自由な人をいやすと群衆が「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった!」と熱狂し、あろうことかパウロのことをギリシア神話の神「ヘルメス」と呼びパウロを落胆・憤慨させた出来事が記されています。(使徒言行録14章8節以下)
パウロはこのような経験から人々が神を求め、神に向かって生きていることを知っていたのと同時に、多くの人の求める神が自分に都合の良い神であって、いわばそれは自分の願望を投影した偶像に過ぎないということを痛感していました。パウロは真の神とは人間の理解のうちに完全に収まるような存在ではなく、人間の理解を超える存在であるとの確信から、畏れと驚嘆、賛美を持って33節で「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と語っています。
人生の全ての出来事の意味は私たちには分からない
これは人間の理解の及ばないところ、人間に隠された神さまの領域があることを認める言葉です。私たちの人生にはなんでこういうことが起きたのか、その意味をどれだけ考えても分からない出来事が起こります。人間には分からない事柄なのに私たちの脳は分からないという曖昧さが苦手なので、それに意味をつけて無理やり理解しようとします。それに対してパウロは神は私たちの理解を超える深さを持つということを語りつつ、36節で「すべてのものは神さまがお造りになったものだから神さまに保たれ、神さまに向かっている」と告げるのです。神の働きは私たちには隠されていますが、目に見えないところで神は私たちのために着々と良い計画を進めてくれています。それがいつ明らかにされるか、またどんな良い計画なのかは分かりませんが、神は必ず私たちにサプライズを用意してくれていることに信頼して、悲しいこと、落ち込むこと、もうダメだと思うことがあっても粘り強く希望を捨てずに生きることを私たちに薦めています。私という人間が思いつく範囲、目に見える部分では希望がないように思えてしまうかもしれませんが、目に見える世界は一部であって全てではありません。目に見える世界より遥かに広い目に見えない世界があり、そこで神は私たちのために働いてくださっているのです。
サプライズパーティーのすすめ
私の知り合いのある方はサプライズを企画するのが好きです。サプライズって分かるでしょうか。例えばサプライズの誕生日パーティーといえば祝われる当事者に内緒で友人知人が誕生日の準備を進め、パーティー当日に当事者をお祝いして驚かせるというものです。私の知り合いはしょっちゅう誰かのサプライズ誕生日会やクリスマス会などを企画して誰かを喜ばせています。よくやるなぁと感心するんですが、それには理由があります。こういう理由です。
自分の周りには心を病む人や自分なんていてもいなくてもどうでも良い存在だと考え自信を失くしている人がたくさんいる。そういう人たちのために裏で仲間たちが歌やダンスを練習してサプライズ披露して喜ばせてあげる。本人は当日まで自分のためにみんなが準備をしてくれているって全く知らず、当日になってそのことを知り喜ぶ。そういうサプライズを経験することでそれまで生きることに絶望してたかもしれないけど、まだまだこの世界も捨てたもんじゃないなって気持ちになる。
彼がサプライズで人を喜ばせるのは、私たちがどれだけ悲しく辛い思いをしている時であっても、私たちの目には見えないところで神さまが着々と何か良いこと、素晴らしいことを進めてくれているっていう神さまの神秘を体験として知ってもらうためです。そして辛い思いをしているときに独りでは神さまを信じ抜くことができなくても、一緒に信じている仲間がいるってことを知らせるためなのです。
サプライズを用意してくださっている私たちの神さまに感謝
私たちの信じる神は天地万物を創造し、私たちを愛する神です。私たちの目に見える世界に美しい自然があり、愛すべき友を与えてくれる神に感謝します。また私たちの目に見えないところで、神が私たちのために素晴らしいことを準備してくれています。目に見える世界だけでなく目に見えない世界にも心を向けたいと思います。目に見えない世界こそ私たちを支える重要な土台です。神さまが私たちの見えないところ、理解の超えるところで私たちを支えようと働いてくださっています。いつもいつまでも栄光が目に見えない世界で働いてくださる神にあるように賛美と感謝の祈りを捧げましょう。
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