一つの物語が行き着いた先
自分はhspなんだけど他人との境界が薄い。そして作品と自分との境界も薄く世界観に没入していくと、どんどん膜みたいなものが無くなっていくのが分かる。
対処法とか制御の仕方を学んで、ライブや本、映画などそういう世界観に入り易い状況でどうしたらいいか少しは自分の取り扱いを理解したつもりだった。
だけど、作品を作る側になってわかった。こっちの方から攻めてくるか〜みたいな、しんどさ
辛かった時のああこれね的なのが襲ってきた。あの時の自分はなにが掴めているのか、これは現実なのか見境が付かず、制御に困った。
憑依系の役者っているじゃん。役柄と自分の境がつかなくなって、本当に自◯したり私生活がおかしくなるの。自分は役者ではないので身体でなにか塩を舐めたり刻んだりって事は今のとこないんだけど、その分精神的にくるところがある。
自分が言語化を躊躇ってきたってこういうのじゃないのかなっていうのが、今浮かんだので書く。
文字にした事が脳裏に刻まれ本当に起こってしまったかのような、まるで時限爆弾を脳内に埋め込まれ口に出した途端、私は自爆犯ですと名乗るようなそんな迫害の意識を持っている。
その罪の意識に駆られ、デジタルタトゥーとして残る。誰かの記憶に僕の言葉が埋め込まれる怖さを他人という鏡を通じ、自分に跳ね返ってくる。
本当は自分と他人の区別が付かず、同一とすることで自分にとって扱いやすく接しているからかもしれない。それが鏡として写した他人が、虚構として鋭い八重歯のように返ってくる怖さ
自分の存在と他人から返ってくるフィードバックに怖がっていたのか。
これは保留ーreservationだけれど、今回この数年の痛惜な人間関係の複雑さと、今後の自分のために記そうと思う。
こんな感じになりましたが、ここまで読んで頂けて幸いです。