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「信用」と「信頼」

「信用」と「信頼」を理解し、対人関係に活かす

信用」は、文字通り、
信じて用いる」ことを言います。
人を「信用」する為には、
信じる為に必要と思われる
幾つかの客観的根拠の有無、
信じるに値すると判断出来る人との
実際の諸体験が元となり、
自らの体験や知識から明らかである
と判断出来る心身の活動≒意識
(自らが保有する現時点の常識や当たり前)
これらの条件が備わったことに対し
信用出来る」ことであると考えます。

この信じることの日々の小さな積み重ね
によって得られる『信頼』=信頼関係は
信じることよりもより深い意識=心です。

この信頼は、疑う余地が無く
その結果が得られなくても
その責任を自分自身に求める
ことが出来る状態を言います。

言葉の通り、
信頼』は【信じることを頼る】訳ですから、
その対象となる人が信じるに足りる
様々な根拠や裏付けが無ければ、
その人を信じることも、頼ることも出来ません。
場合によっては相手を信頼するために、
相手を徹底的に疑う場合も多々あります。

さて此処で信頼を紐解いてみます。
信頼の基礎となるのは、
その対象となる相手を「信じる」と言う意識です。
「信じる」の語彙は自らが真実と思うこと。
信仰すること。と言う意味があります。
それは、事実や現実を捉える「真実」ではなく、
自らが「真実と思う」ことを指します。


当然ながら、他人の意見は関係がなく、
明確な裏づけや根拠を探る必要もありません。
人が人を信じると言うことは、
ある意味でその人「本人の心」と言えます。


信じると言うことは、
その本人が今迄に培ってきた知識、
現在まで生きてきた体験や知恵、
また、その人の持つ独自の感性や
個性から判断を下すことです。
即ち、
「自らが得心出来ること。
  疑っていないこと。」を真実と
思うことが【信じている】ことです。

人は同じことをしても、
信頼の有無、相手との関係によって、
物事や結果についての受け止め方、
その対象への見方は変化します。

別な見方で考えてみますと、
相手に対し「信頼関係を作ろう」と
意図的に意識したり、目論んだりして
作る「信頼」は、見返りを望んだり、
求めたりしていることであり
真の「信頼」とは言えません。

また、
信頼」は「信じて頼る」こと以前に、
相手が心から喜んでくれ、
温かな気持ちを持って貰うことも
前提の一つとも考えられます。

即ち、信頼は、双方の心の中において、
「一方的で無条件に信用していること」
「受け入れていること」
「依存するところに根ざしていること」
「許していること」
であり、それは時により、
双方が噛み合ったり、
噛み合わなかったりし、
互いの心の領域から
はみ出す場合もあります。

また、互いが我慢や自制心を、
コントロールすることもあり、
礼や節度も必要であり、
喩え自分の心(意識)や判断や決断
と異なることでも認め、許せること、
とも考えられます。

また、「信頼」は相手の行動の結果が
予測の範囲内にあるとも考えられます。
因って、
相手の行動の善し悪しに係らず、
予測・予想が出来れば「信頼」は成立します。

逆に、予想が出来ず、予測不能な想定外の
行為・行動・態度を取る人は、
相手の立場や人間性に係わらず
信頼出来ないと考えられます。

信頼とは、信じていたこと
(期待していたこと)にそぐわない結果が
出たとしても失われることはありません。

また、期待していた結果が
得られなかったとしても
補償や賠償などを望み、
求めないことて言えます。

そして、
信頼していた対象となる人が、
故意にこちらが信じていることに
喩え、相反する結果を選んでも、
裏切りではないと受け止めることです。 

何故なら、「頼る」というのは
「相手の判断に頼る(を信じる)」
と言うことでありその結果に対する責任は
自らが選択した結果によるものだからです。


信頼関係は、
一方的な想いが双方向に生じた状態を
呼ぶことであり、信頼と信用は決して
切り離せることではありません。


その境界はとても曖昧で、
どこまでが信用で、どこからが信頼
とは限定出来ないと思われます。

この信用と信頼と言う心=意識は、
その相手へ無意識の内に成される
自らの心の表現や行動から生まれます

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