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天才と秀才ー非認知能力は考慮されてきたのか?

 このような主題について書くのは、憚られるのかもしれない。しかし、私はこの点の考察を小学生の時に既に行っており、あれから40年以上経過し大学教授になった現在、一定の私論を示しておきたい。

 小学校五年生のとき、宮城音弥教授の著作『天才』岩波新書を読んだ。父の本棚に宮城教授の新書がいくつか並んでおり、すべて読破したが『天才』がもっとも面白かった。

 同書では、音楽家、芸術家の家系図なども示され、天才が創造的な人生を歩み、栄誉を得たことが述べられている。一方で、新説を提唱した天才的人物が、当時の常識からの反発に遭い、理解されず不遇であったことも指摘されている。

 宮城教授の分類が面白い。天才、能才、凡才と書いてある。天才はギフティッド、才能があり創造的な人。能才は秀才(この記事では、以下、能才を秀才と呼ぶ)で、努力した人。凡才はこれと言って顕著な点を発揮しない人。

 このような分類は直截過ぎて現代社会では反発されるかもしれない。しかし、私には宮城教授の指摘はストレートで興味深い。

 ただし、本書が書かれたのは昭和であり、令和の今と比べると不足点がどうしてもある。それは非認知能力の点である。上記の、天才、秀才、凡才は、認知能力を基盤に昭和の時代に考えられてきた。具体的には、数学の天才、数学の秀才が認められた社会であり、こうした教科の学習や、作曲といったずば抜けた芸術能力は高く評価されてきた。しかし、優しさの天才、協調性の秀才、楽観性の天才といったコンセプトは除外されてきた。ましてや、たとえばわかりやすい表現で言うと、数学の秀才でかつ楽観性の天才といった説明はほとんどされてこなかった。これは、非認知能力を看過し、かつ、認知能力と非認知能力の相互作用や重複面を見てこなかった結果と言える。

 平成の時代、1989年(平成元年)改訂学習指導要領で新学力観が提唱され、以後、少しずつ、認知能力だけでなく、非認知能力への着目が提起されてきた。しかし日本では、2000年代以降、現在に至るまで、的外れな「ゆとり教育批判、ゆとり世代批判」が現れ、適切な教育改革の芽を摘んでいった。この点は次の拙著に詳しく書かれている。

 令和の時代になり、人口知能の進展と適切な活用、人権保障の具現化、多様性を前提とした公正な社会の形成への希求が世界的に求められるようになった。そして、OECD、ヨーロッパ諸国、北米の教育が一斉に非認知能力やウエルビィーングにシフトしていた。この動向をみて、日本も非認知能力を重視することきなったが、いかんせん出足が遅く、理論的深掘りもしていないので、どこまでモノになるのか怪しいところである。逆にモノにできれば、上述の、天才、秀才、凡才の社会的理解や意味づけも良い方向に変わってくる。しかし、日本社会の現状を見ると、大学や学校教育、教育委員会を含めて、このように多面的、複合的に、天才、秀才、凡才概念を理解できているとは、とても言えない。凡才にしても、一見いいところが無さそうにも見えるが、オールラウンドに非認知能力が発揮できるとか、そのある部分では認知能力も秀でているのなら、ある種の天才であり、形式陶冶(コンピテンシー)の高さを意味していると言えよう。実際、組織運営を円滑にして、上と下、横と異なる属性の横の人々を横断的につないでいるのは、そのような「非認知能力オールラウンダー」ではないだろうか。

 「非認知能力オールラウンダー」は日本的天才かもしれない。しかし、米英といった枠組みを超えて、グローバルな研究実践活動の場面では、日本以外でも、「世話好きで、プレゼンがうまく、多文化、多様性、基本的人権と社会正義」を重視した「非認知能力オールラウンダー」(+グローバル認知能力高度者)が活躍する時代になる。自国に自省を込めて言えば、「非認知能力オールラウンダー」は日本の専売特許とは言い切れない。わたしの知る範囲では、次の学者は「グローバルな非認知能力オールラウンダーリーダー」と形容できる。彼女はアメリカ人で演説が上手いが、「世話好きで、他者のことを気にかけて」おり、いわば日本文化的な気質のある部分も自然に発揮している。今後の教育経営研究のグローバルリーダーの1人であろうと言っても過言ではない。

 最後に、ギフティッドな子供を伸ばす必要はあるかも知れないが、およそ諸外国では、後期中等教育段階でギフティッドコースを設けている。人間形成の基盤をつくる初等教育や前期中等教育で行うことは、避けた方がよい。本人の人間形成や公正な価値観の育成のためにも、慎重に考えるとともに、「教育とは何か」を充分考える必要が教育政策形成者に強く求められる。むしろ、ニーズベースドの教育や予算措置、公正を実現するためのパーソナライズドラーニングは、パーソナライズドメディスンの動向に注意を払いつつ、教育の理論や構成をもとに、強く進められるべきである。

(©︎ Dr Hiroshi Sato 2023)

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