澁谷知美『日本の童貞』読了

澁谷知美さんの『日本の童貞』という本を読みました。

新書での初版が2003年、で、その後も繰り返し増刷されて2015年には文庫でも出版されました。直接的でセンセーショナルなタイトルが目を引くとともに、資料研究も丁寧で読み応えはありますから、この人気も納得です。

澁谷知美さんといえば男性学に関する鋭い発言のイメージが強かったのですが、この本ではあまり澁谷さんの主張が前面に出てくる感じの部分は多くなかったですかね。最後の章くらい?

全部でこの本は十章からなっており、第一章の1920年代の話から時代が下っていきます。「童貞」が社会的にどう取り扱われてきたのかということが分析されていき、これは第十章の途中まで続きます。

第十章の途中からは総括になり、童貞が「差別」される社会的状況がどう成り立ってきたのかをまとめた上で、「おまけ」と称してこうした状況に「抵抗する」ためのアイディアを記しています。「セックスの非特権化」、「非童貞の非特権化」に加えて、「あえてこの状況に適応し、女性がそうしてきた(させられてきた)ように『媚びて』みる」という方法を提唱しているのは渋谷さんの言説らしいと、私なんかは感じました。もちろん、最後には個人の努力ではなく社会の変化を望むことを述べて締めています。

文庫版が出版されることとなってから書かれたあとがきにも書いてありますが、澁谷さんがこの『日本の童貞』という本を書き終えるにあたって示唆していた期待のようには、「童貞」を取り巻く環境は変わらなかったと思われます。だからといってこれからも変わらないということではないですから、この本はこれからも役割を果たしていくでしょう。


私個人の話。

文庫版の最後には「解説」として田房永子さんの文章が掲載されています。この「解説」が実に不思議でした。

「解説」と書いてありますが、有識者がアレコレ分析を書くというよりは、田房さん自身の「童貞」に関する経験などを書かれていて、「このパートは一体何なのだろう?」と思ってしまいました。このパートはあとがき、文庫版のあとがき、表、参考文献の後にあり、この文庫版の掉尾を飾るものなのですが、果たしてこのパートは何を意図して置かれたのでしょうか。

このパートの面白いところ、そしてざわつかされるところは田房さんの経験というリアルさにあると思います。それまでの本編が澁谷さんによる分析記述だったので、最後の最後に田房さんの経験から書かれた文章が配置されると、途端に肌に訴えかけてくるというか、読後感に妙な重さを残すのです。


私は「童貞」です。現状、その「童貞」という言葉にはそこまで何かを感じているわけではないと思います。様々な意味を込めて「童貞」という言葉が使われている状況については気づいているので、「童貞」という言葉の使い方、意図がどのようなものであるか、ということには敏感かもしれません。

ただ、最近は私がどう性行動していくかということに関して悩みがあるのは事実です。悩みもぐちゃぐちゃしていますし、「そもそもなぜ悩んでいるのか」といったメタ的な悩みも含めて自分にとっては重大な問題になっています。多分。

この本にも書かれていますが、決してこの『日本の童貞』では私の悩みをスパッと解決することはありませんでした。しかし、様々なものを提供してはくれました。それは、社会からの鎖を外すのには有用です。でも、私達は社会のみによって価値観を形成しているとまではいきませんから、最後は自分との対話が必要になるのでしょう。

そういう意味で言えば、この本は「童貞学入門」とでも言うべきものだと思います。


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