#高安動脈炎闘病記 6

6.「今日、このまま帰せないです」

3月18日。

検査の予約を入れていた事もあり、入院手術に向けての検査へ向かった。家族は仕事なので、自分の車で向かった。
受診するのは大きな病院で、広い広い駐車場に車を停め、数分歩いて漸く病院内に辿り着く。具合が悪い人が来る場所なのに、なんでこんなスパルタなんだ。
息を荒らしながら、僕は院内へ辿り着いた。
無論、院内も広い。受付を済ませ、
一つ一つの検査へと院内を右往左往する。


CTスキャンの機械へ入る時に、
息ができなくなった。
そこからの事はあまりよく覚えていない。
外来の看護師さんから言われたひと言を除いて。

緊急入院。

気付けば病棟の個室にいた。どうやってここまできたんだろうか、全く覚えていない。
見知らぬ、天井とでも言えたら少しは気持ちが良かったのだろうか。
正直ちょっとそんなことを考えた。

とにかく、思いがけない形で入院生活がはじまった。
僕は、心不全を起こしていた。

入院の一報は、すぐに母の元へ届いた。
もちろん、そのまま入院する予定などなかったので何も持ってきていない。
取り急ぎ必要なもの(メガネや着替え、パソコンなど)を持ってその日のうちに駆けつけてくれた。

入院後はまず、今の状態を脱するための治療を進めることとなった。
肺にも水が溜まっていて、溺れているようになってしまう。
なので、浮腫みをとり、溜まった水を抜くための治療が始まった。

見たことのない、大きな機械式の点滴が腕に繋がれていた。
よく分からないが、子供の頃にこんなおもちゃがあった気がする、なんか遊戯王っぽいとか訳のわからないことを考えていた。

ベッドから起き、ちょっとした移動で過呼吸を起こす。この繰り返し。
リハビリのため病棟内の散歩もした。たったの20mも普通に歩けなくなっていた。常に脈拍は100を超えていた。

緊急入院から数日が経ち、大部屋に空きが出たので移ることになった。
基本的に戸が閉められた個室とは違い、大部屋は戸が開いている。目の前は共同のトイレ、少し進み角を曲がると集中治療室がみえる。

移動したその日だったかの消灯後、夜中に廊下で話し声が聞こえる。
どこかの家族がお葬式の話をしていた。

うまく眠れず、初めて睡眠薬を使った。


病室にいると、たくさんの来訪者がある。
心臓血管外科の先生に総合診療科の内科の先生。看護師さんに栄養士さん、薬剤師さん、理学療法士さん、ヘルパーさん、看護助手さん、掃除のスタッフさん。時には検査技師さんまで。
細かい職種までは流石に覚えていない。だけど、毎日いろんな人がやってくる。同い年かぐんと若いか、そんな方もいる。
なにもできない自分の側で、人のために働く人がいる。


とはいえ入院中といえども勤め人なので、必要な報告はしないといけない。
入院の報告、仕事の連絡。持ち込んだパソコンから最低限できる仕事をする。
応えることでさらに次が来るので、心身ともに限界が来たのは割とすぐだった。

なにもできなくなった。したくなくなった。
迷惑かけているのはわかっている。
僕はめちゃくちゃ小心者だ。
ナースコールひとつ押すことすら遠慮して、ナースステーションまで歩いていくほどだ。
頭の中にぐるぐると取り繕う言葉ばかりが浮かぶ。そしてまた過呼吸を起こす。

うまくできない。悔しい。
頭の中で浮かんでいた、取り繕う言葉は形を変え、歪な泥だんごになっていった。


食事は減塩食になり、やがてそれは1日の塩分量=どん兵衛1杯分(約6g)にセーブされた。
聞いたことない名前の薬をたくさん処方された。説明を受けたが何が何だかわからないので、とりあえず飲んどきゃいいやと思った。

何が何だかわからないまま、毎日を過ごした。

気付けば3月が過ぎ去ろうとしていた。
変わらず手には針が入っている。
いつまで続くのだろう、そんなことを思いながら病室にいるといつもの内科の女医さんがやってきた。

僕より少し年上であろう女医さんは優しい語り口の喋りやすい先生だった。
外科の先生たちはどこか職人気質を感じるが、困りごとを聞いてくれたり、時には雑談をしたりと親身に携わってくださる。
そんな先生が、難しい顔で問いかけてきた。


「高安動脈炎ってご存知ですか?」

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