1944年10月 深淵からの警告
こんにちは。江戸前寿司の旬を知っている江戸川区の鰻はさすが江戸っ子だねえ、と面白く考えていたら違っていた続きw
1923年8月30日に鰯が浮いたのは利根川・旧江戸川(一番浮いたのはここと記録が残る!)江戸川・隅田川・神田川・目黒川@戸越・大崎?この時まだJR大崎駅・五反田駅は海というか河口でした。
鰯が浮いた記録や写真が残っているのは人口が多かったことに加えて、江戸前=東京湾から近いことも目撃証言に繋がったのだろう。
神田川≒皇居のお堀を埋め尽くした鰻とナマズの報告書を上奏した小生の祖父は、関東大震災発生中も救護活動と治安維持に駆り出される中、鰻とナマズの続きを調査する下命を拝し、江戸川・旧江戸川・隅田川・目黒川でも同じことがあり、その後鰯が浮いた報告書を「王羲之フォント」で書き上げて上奏した。依頼者は被災者や流言飛語による虐殺された犠牲者に深い哀悼の意を示されながらも、祖父の報告書を興味深く読み返えされたとか。
その後卒業した祖父は下関へ向かい、そこから日本海を渡り釜山へ。以後満州鉄道で亜細亜号で鉄路を首璽に北上し赴任。以後ー平壌ー大連ー奉天へと移動を繰り返すが、「恐ロシアの戦車を自軍の3倍破壊した」後で帝都に戻れと大命が。
降格か?と焦る祖父を丸の内で待っていたのは、皇居のお堀報告書を手にしたかの方だった。これ以上漢は見せなくていい!私はこれ以上皇民が死ぬのは望まない!!平和の為に、中野で日本全国から集まった天才を指導してほしい!!!との下命を拝し、祖父は母校の教壇に立つこととなった。